女性初の内閣広報官は7万円会食で吹っ飛んだし、9月に発足するデジタル庁も接待から生まれた産物なのか、カネと政治は切ろうにも切りようがなく表裏一体である。憤る御仁もおられようが、商人と権力者の癒着は今に始まったことではない。長い目で見ながら、今できることは何かを考えたほうがよさそうだ。
備前市浦伊部(うらいんべ)に「伝太閤門跡」がある。市指定史跡である。建造物ではなく史跡として指定されていることがポイントだ。
野面積の石垣に簡素な門。中世の面影を伝えるかのような素朴さが感じられる。「太閤」の名の付く門がなぜこの場にあるのか、門奥にある説明碑を読んでみよう。
来住法悦(?~一六〇九)は、安土桃山時代この地で活躍した豪商であるが、その子孫来住家にあるこの門は「太閤門」と呼ばれている。享保年間(一七一六~一七三六)の文書「来住権右衛門口上覚」によれば、羽柴秀吉が備中高松城攻め(一五八二)の帰途立ち寄ると約束をしたため、法悦が御殿と門を新築した。しかし、秀吉は本能寺の変(一五八二)のため立ち寄らなかったとある。その後、御殿は妙圀寺に寄進されたと伝えられている。
現在の門は野面積の石垣が切れる部分にあり、しかも石垣はその部分で升形となるなど、門と石垣の配置が特殊なものと考えられている。
平成六年、石垣を含む門の周辺一帯は「伝太閤門跡」として備前市指定史跡となったが、門の傷みがひどく、倒壊が懸念されたので太閤門保存会を組織し、浦伊部の方々、岡山県、備前市、(協)岡山県備前焼陶友会、妙圀寺、来住氏などのご協力をいただき、平成八年三月保存のための全面解体修理を行った。
平成八年七月吉日 太閤門保存会
浦伊部が面する片上湾は、『延喜式』の昔から方上津(かたかみのつ)として知られた良港である。時に天正十年(1582)三月十六日、毛利氏との決戦に向かう秀吉は伊部に来住(きしゅ)・大饗(おおあえ)・小国(おぐに)の地元年寄を集めて制札を与えた。地域の安全を保障するとともに、支配者であることを明確にしたのである。
この時、秀吉は「帰りにはお前の所に寄るからな」と来住法悦に約束したようだ。法悦は戦勝のお祝いにと御殿と門を新築して待っていたのだが…。これが歴史の面白いところで、時しもあれ本能寺の変という不測の事態が勃発するのだ。
六月二日が本能寺の変、三日に秀吉に知らせが届く。すぐさま毛利との和睦を取りまとめ、四日には京に向けて出立するのである。その日は野殿(岡山市北区)に泊まり、翌五日には沼城(岡山市東区)に入る。六日は沼城から姫路城まで一気に駆け抜けている。
これでは来住家に寄る余裕などあろうはずもない。法悦の努力は無駄になったように見えるが、秀吉の覚えがめでたくなったことだけは確かだろう。幻の凱旋門となった太閤門は、歴史上貴重な接待の遺物である。総務省お墨付きの接待遺産として認定してもらいたい。
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