人類初のコロナ対策は迷走しながら今に至り、多くの人が懐疑的に感じる中で五輪開催が強行されようとしている。この先どうなるのか誰も予測できない。同じくらい混沌として訳が分からないのが戦国武将の離合集散である。裏切りなんてしょっちゅうで、生き延びることに意味があったのだ。岡山県の主要大名の動向を見ることとしよう。
浦上氏が織田方についたのが天正元年(1573)。浦上氏からの自立を狙う宇喜多氏が毛利方についたのが同2年(74)。宇喜多氏と相容れない三村氏が毛利方から織田方に寝返ったのも同じ年。三村元親が毛利氏に滅ぼされたのが同3年(75)。浦上宗景が宇喜多氏に追放されたのが同5年(77)。毛利と宇喜多の共同戦線で織田方を退けた上月合戦が同6年(78)。宇喜多氏が毛利氏から離反するのが同7年(79)。いよいよ決戦の秋が来た。
岡山県苫田郡鏡野町香々美に「桝形城址」がある。町指定史跡である。
城跡探訪というより、何合目という数字が増えるのを励みとする登山であった。1時間の道程は冬枯れの山でなければ汗だくでへばったことだろう。頂上には二等三角点「舛形山」と645mの表示がある。その高さは抜群の眺望からも分かる。
鏡野町中心部から院庄方面を見通すことができ、美作の中心部を押さえる要衝と言えよう。城の造りは大規模で技巧的、土木技術の高さをうかがい知ることができる。
登山道を寸断する堀切である。説明板は登山道入口にあるから、あらかじめ読んでおこう。
桝形城址
鏡野町香々美字桝形
町指定史跡(昭和56年4月1日付)
標高645mの桝形山の山頂部に、小早川隆景が築城したといわれる桝形城の址がある。現在も、築城当時を想像し得る形状が残っている。本丸の南に小桝形、北に北の塁あり、地形を利用した築城をしのぶことができる。福田勝昌が入城したのは永禄年間(1558~69年)といわれる。
天正7年(1579年)毛利・宇喜多の連繫が破れ、相戦うに至り、同年3月、宇喜多直家は2万余の大軍をもって桝形城を攻撃した。当時城方は、毛利家与力の安黒一右衛門勝重、矢野孫六等が城将福田勝昌を主将とし、毛利家の軍監吉田肥前守元重、森脇市郎右衛門春方等と共に籠城、これを防いだ。城兵は500騎余りに過ぎないので、直家は一気に攻撃したが、城兵の気魄はただならぬものがあった。結局直家は弟忠家の諫言により陣を引払って退いたという。
城士大塚某の奮戦は殊にめざましかったと伝えている。現在も、桝形山の中腹に、大塚横手なる地名が残っている。
平成7年1月 新町一日会
『作陽誌』(西作誌上巻、苫南郡山川郡)「升形城」の項には次のように記されている。
在藤屋村小早川左衛門佐隆景修築之使福田玄蕃勝昌同助四郎盛昌等守之山形嵂崒至本城登十七丁餘本城南曰大塚郭勝昌家有大塚某者屢著武名遂戦死之古墓尚存焉勝昌弟有福田太郎左衛門従浮田直家兄弟相分而終
城将として福田勝昌、盛昌の名を挙げている。山形は「嵂崒」、高くそびえるという意味である。天正7~8年(1579~80)、美作各地で毛利・宇喜多による激しい攻防戦が繰り広げられたが、桝形城は医王山城とともに、毛利方の重要な拠点であった。
天正十一年(1583)の中国国分により美作は宇喜多領となるが、『岡山県中世城館跡総合調査報告書』第3冊美作編によれば、「同12年正月、羽柴秀吉は蜂須賀正勝・黒田孝高が毛利氏から升形城を受け取るとの報告を受けている」とのことだから、岩屋城と同じくしばらく毛利方の抵抗が続いたのだろう。
岩屋城の規模には目を見張るものがあるが、桝形城も毛利氏の美作支配とその気魄を象徴する大規模な山城であった。以後このような城は築かれることはなくなり、津山城の美観が地域支配のシンボルとなる。
圧倒的な強さを誇った毛利氏も結局は美作を安定的に支配することはできなかった。高くそびえる山城で戦国大名はいったい何を争っていたのだろうか。富か名誉か、その両方か。飽くなき支配欲の前に人の命は軽んじられていたのだろう。では、五輪開催という大義の前に軽んじられているものは何だろうか。開催が自粛疲れの国民に誤ったメッセージとして伝わると、現代医学の軍師が警鐘を鳴らしている。
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