週刊新潮が7月1日号で「現代の道鏡」というセンセーショナルな表現を含む記事を掲載した。ならば現代の和気清麻呂は誰なのか。週刊誌の記者自身が正義の筆誅を加えているつもりなのだろう。ふん、まったく要らぬ世話というものだ。多額の税が絡むから口出しできると思っているのだろうが、アベノマスク260億円に比べると大したことはない。叩きやすい所だけ叩くのは筆誅の名折れであろう。
備前市吉永町福満字倉吉に「清麻呂塚」がある。
山深い場所ではないが表示も何もなく、地元の方の案内なしでは行き着けなかっただろう。わざわざ友人に電話して、これが清麻呂塚かと確認までしていただいた。聞けば、大きな猪が獲れたのでこれから解体するという。ご親切のおかげでこの記事を書くことができる。心より感謝申し上げたい。
さて、『日本後紀』巻八の延暦十八年二月二十一日条に、次のような記事がある。
贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨
これに続けて清麻呂の事績を詳しく紹介し、その徳を称えている。墓は高雄の神護寺にあり、寺の開基は和気清麻呂である。京で没した清麻呂は自らが開いた寺に手厚く葬られたのである。正史に疑いを目を向ける必要はまったくないが、稗史にも面白い話が伝わっているので紹介しよう。岡山文庫190仙田実『和気清麻呂』の「清麻呂塚」には次のように記載されている。
民間の古記録では清麻呂(清丸)が満願寺源珠院にきて泊まり病を発して死んだので堂の東に葬ったという。
これは延暦十八年九月十五日明け六ッ時のことだそうだ。旅に死した清丸の話が、昭和初めに民間から見つかった古文書に記されていると、『吉永町史』通史編1は紹介し、次のように分析している。
おそらく小賢しい他国の遊行者が、いつのときか清丸(清麻呂)を騙って寺に寄食し、途中そこで死亡したというのが真相ではないだろうか。
そうなのかもしれないし、花山法皇や北条時頼の廻国伝説をもとに清麻呂伝説が創作されたのかもしれない。この伝説で清丸は御守りと小剣を寺に遺したというが、正義漢らしき姿は伝えられていない。
現代の和気清麻呂はどこにいるのか。厚顔無恥で横柄かつ傲慢な政権中枢部に果敢に斬り込む記者を時々見かけるが、こういう人こそ今の世の中に必要だ。質問した記者に「その程度の能力か」と答えたという首相経験者で現役大臣のA氏や自身の発言で公文書改竄が始まったにもかかわらず関心さえ見せない首相経験者A氏。政治が政治家の資質によって左右されるようでは、ドロドロした奈良朝の政治と何ら変わりがない。
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