三宮と聞いてすぐに思い浮かぶのは、神戸の中心街三宮だろう。地名の由来は三宮神社。生田神社を囲む一宮から八宮の八社の一つである。ただし、普通は社格制度において諸国にある一宮、二宮、三宮を指す場合が多い。先日は美作三宮を紹介したので、本日は備前三宮を紹介しよう。
備前市吉永町神根本(こうねほん)に神根神社が鎮座する。
屋根付きの扁額が、社格の高さを象徴しているように見える。説明板には次のように記されている。
神根神社は延喜式内社に備前の国の三ノ宮とされ、一ノ宮は吉備津彦神社(岡山市一宮)二ノ宮は安仁神社(岡山市西大寺)に次ぐ由緒ある神社です。
創建は約千三百年前、開化天皇子神王根王(かいかてんのうのみこおうねおう)によるとあるが、詳細は不明。
開化天皇は第9代の天皇だから1300年前よりかなり古いだろう。しかも実在さえも疑わしい。神王根王(神大根王かむおほねのみこ)は開化天皇の子彦坐王(ひこいますのみこ)の子だと『古事記』中巻開化天皇段に記されている。美濃の豪族に関係する人物らしい。吉備地方と何か関係があるのだろうか。
神社の南に「和氣公家臣國貞老葉墓」と刻まれた墓がある。昭和7年に子孫の方々によって建てられた。岡山文庫190仙田実『和気清麻呂』によれば、老葉については地元に二つの言い伝えがあるようだ。まずは『吉備温故秘録』が伝える内容である。
御所ヶ平にいた清麻呂が筑紫(福岡県)に下ったとき、国貞老葉という者がお供し「藤の丸に桐のとう」の紋をもらった。その子孫は神根本に今もいる。近くに南谷という地名があるが、それは御所ヶ平の南にあるため、そう名づけられた。
もう一つは神根本村名主市郎右衛門の藩報告(元禄十一年)が伝える内容である。
安徳天皇(十二世紀末)のころ御所ヶ平に御所様(名前不明)がおられ、この人が筑紫に下るとき神根本村の国貞老葉がお供した。藤の丸に桐のとうの紋をもらい、今も子孫が一両人住んでいる。御所様が川漁のとき網を干されたところを網原とよんでいる。
どちらが正しいのか。仙田氏は次の二点から後者だとしている。すなわち、吉永付近は平氏方で安徳天皇に従って筑紫に下向した史実があること、家紋は源平戦ごろから使われ始めたこと、である。
ならば御所様とはいったい誰のことか。『吉永町史』通史編1は、次のように指摘する。
「御所様」は神根近辺を支配している大名主とみて、和気清麻呂とはせず、清麻呂の子孫の「中世和気氏」とする。(中略)そして「国貞老葉」はその家来の者とみる。当時の家来とは名主のことである。名主は名田地主、土着の武士にほかならない。「国貞」とはまさに名主の典型的な名前である。
確かに説得力のある説明だ。墓碑銘も「和気公家臣」だから問題なさそうだ。伝承は語り伝えられるうちに様々に成長する。奈良朝のことか源平の頃なのか、時代を経れば分からなくなってしまうのは当然だ。江戸時代に語られた伝説の内容には、当時の常識が反映されている。家紋が奈良時代になかったなんて思いもよらぬことだったに違いない。
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