「忠」という道徳的価値が失われて久しく、今や肌感覚で理解できなくなっている。かつて忠臣といえば楠木正成であり新田義貞であった。しかし、考えてみれば南朝にとっての忠臣は、北朝にとっての朝敵である。どちらにせよ皇統は守られるという前提があっての争いだった。そうではなくて真の意味で皇統の危機を救ったのは、道鏡の即位を阻止した和気清麻呂ではなかっただろうか。
岡山県和気郡和気町藤野の実成寺周辺は「藤野寺跡」として町の史跡に指定されている。
この地は金剛川と日笠川の合流地点で、川の運ぶ土砂によって平地が形成され、付近では最も安定した開けた土地であった。このため、テーマパークの如く史跡が点在している。まずは藤野寺跡について、門前の説明板でおさらいしておこう。
藤野寺跡(藤野廃寺)
和気町藤野三四八番地
福昌山実成寺周辺
一九七六(昭和五十一)年四月一日町指定(史跡)
藤野寺は、和気寺(現和気町稲坪の塔田)とともに、奈良時代に和気氏の氏寺として建立された平地仏教寺院である。
現在、寺跡には別寺院の福昌山実成寺(日蓮宗)が建てられているが、境内からは奈良時代の軒丸瓦片が出土している。当時の寺域は、付近の地名や遺物散布状況などからかなり広かったと推定され、三町(三ヘクタール)余あったとも言われている。
源平盛衰記には合戦の舞台ともなったことが見える。それによると源木曽義仲の家来である倉光三郎成澄が平氏を追って西進中に、備中出身の妹尾兼康に夜討されたのがここ藤野寺であったという。成澄の石碑がここから北数百メートルの位置にある。
このように、藤野寺は和気地域の古代史を語る上で重要な史跡である。
ここには藤野寺という大きな寺があり、和気氏の氏寺だった。さらには源平合戦の舞台にもなったという。このあたりは古代山陽道が通過していたから、VIPも多く訪れたはずだ。まずは実成寺の境内に入ってみよう。
実成寺境内に「美作備前国造」「清麿公之塚」と刻まれた石碑がある。和気清麻呂顕彰碑である。天保十年(1839)に国学者で地元の名主であった万波南峰が建てた。その内容は岡山文庫190仙田実『和気清麻呂』に、次のように紹介されている。
清麻呂は道鏡事件のとき勇気をふるって大功を立てた。摂津大夫、民部大輔、中宮大夫となり国政につくした。配流中祖先の墓がこわされたが朝廷は彼とその祖先四代を国造の職にして慰めた。故郷では磐梨郡を分立し、賑給田一〇〇町を献じ人民の撫育を心がけた。先祖弟彦王は和気の関に忍熊王を討ち、藤原県をもらって住みついた。それが今の藤野である。彼の墓は寺域の三十番神堂下広世がここへ改装した。近くの国司免は功田でそこには国司神社がある。
国学の発達とともに郷土史への関心が高まった。国学とは歴史学であり文献学でありナショナリズムでもある。ここでは道鏡事件とともに地域振興の偉人として顕彰されている。忠臣としての側面は近代天皇制が確立してから強調されるようになったのだろう。現代では独立不羈の精神、学問の神様が強調されている。清麻呂公顕彰の動きそのものからも日本思想史が見えてくる。
同じく実成寺境内に「和気氏経塚」がある。これについて仙田『和気清麻呂』は、3つの説を紹介する。すなわち清麻呂の墓とする「卿塚」、経文を埋納した「経塚」、そして「倉光成澄塚」である。そのうえで、次のように推定している。
「源平盛衰記」のいうとおり、ここで倉光成澄が殺されたとして寺域にまず彼の墓がつくられ、その後日蓮宗が広まってきて法華経を納めて経塚とされ、上に三十番神が祭られた。しかし後年神仏分離令で三十番神は同寺域一隅に移された。一度法華経塚となったので三十番神が去った後は単に“経塚”にもどったが、まもなく和気氏礼賛の風潮が高まると(明治後期)、和気氏を付会して「和気氏経塚」とし由緒を飾った。ちなみにこの石碑の建立は明治末である(『藤野村誌』)。
倉光成澄は、藤野寺跡の説明文にあったように木曽義仲の家臣。平家方の妹尾兼康による夜討で殺されたという。兼康は倶利伽羅峠の戦いで倉光の捕虜になり、平家を追う義仲軍に同道していた。『源平盛衰記』(有朋堂、明治45年)で確かめてみよう。第三十三巻「木曽備中下向斉明被討竝兼康討倉光事」には、次のように記されている。
兼康道すがら思(おもひ)けるは、妹尾まで行(ゆき)ぬるものならば、新司とて庄内一(ひと)はな心にてもてなし、思著(おもひつく)者有て勢附(せいつき)なば如何にも難叶(かなひがたし)と思て、備前国和気の渡より東に、藤野寺と云古き御堂に下居(おりゐ)て、兼康申けるは、やや倉光殿、妹尾は今は程近し、やがて打具し奉べけれ共、世間の忩々(そう/\)に所も合期(がふご)せん事難し、兼康先立て所の様をも見廻(みめぐり)、又親しき者共にも相触て、かゝる人こそ下向し給へとて、御饗(もてなし)をも用意せさせんと云ければ、倉光は何様にもよき様に相計(はからひ)給へとて爰(ここ)に留る。兼康はすかし負(おほせ)て、先立て草壁(くさかべ)と云所に馳附(はせつい)て、使を方々へ遣して、親者(したしきもの)四五人招寄(まねきよせ)て夜討せんと出立(いでたち)ける。倉光争(いかで)か角と知べきなれば、今や/\と待(まつ)所に、夜半計(ばかり)に、兼康は十余騎の勢にて、藤野寺に押寄て、倉光三郎を夜討にしてこそ帰(かへり)にける。
兼康が道すがら思っていたのは、妹尾(岡山市南区)まで行ってしまえば木曽殿を新たな支配者として迎え、味方する者も現れて勢力が大きくなればどうにもならなくなる、ということだった。そこで備前国の和気の渡しの東にある藤野寺という古いお堂で休息した時に、兼康は言った。
「ところで倉光殿、妹尾も近くなりました。木曽殿をお連れしようと思うのですが、世の中のあわただしい流れについていけておりませんので、私が先回りして領内を視察し、親しい者にこのようなお方が下向なさると知らせて、おもてなしを用意させましょう。」
「さすがは兼康殿、よきに計らってもらいたい。」と、倉光はこの場に留まることとした。
だましに成功した兼康は草ケ部(岡山市東区)まで進んで、方々に使いを出し、仲間を四五人集めて夜討の準備を始めた。倉光にどうしてそんなことが分かろうか。今か今かと待っていると、夜半になって兼康が十余騎とともに藤野寺に押し寄せ、倉光を夜討にしてしまったのである。
こうして『源平盛衰記』を読むと、和気氏経塚はやはり倉光の墓だったように思える。ところが、「藤野寺跡」の説明板に「成澄の石碑がここから北数百メートルの位置にある」と記されている。さっそく行ってみよう。
同じく藤野に「倉光三郎成澄之塚」がある。
裏面には次のように刻まれている。
倉光三郎者源義仲之臣也
備中之士與妹尾太郎兼康戦于藤野寺而死矣
山陽本線の踏切を渡って来たから、藤野寺跡からは距離があるように思えるが、けっこう近い。山陽本線を古代山陽道に見立てると理解しやすいのかもしれない。もう少し東に進んで、再び和気氏ゆかりの地を訪ねることとしよう。
同じく藤野に「和気氏政庁跡」がある。町の史跡に指定されている。
和気氏の政庁とは、どういうことだろうか。和気氏居館跡なのか、和気氏が郡司を務めた藤野郡衙だったのか。裏面には次のように刻まれている。
是垂仁天皇之皇子鐸石別命之曾孫弟彦王所創置政庁之所弟彦王第十二代之孫和気広虫姫清麻呂公所出生之地
和気氏の祖先鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の曾孫である弟彦王は、神功皇后にそむいた忍熊(おしくま)王を倒した功により、藤原県(藤野郡)を与えられ土着したという。その十二代後裔が和気広虫・清麻呂姉弟である。居館兼郡衙のようなものがあったのか。もっと大きな石碑が向こうに見える。行ってみよう。
「和気清麻呂公碑」と刻まれた石碑もある。山陽本線の電車からもよく見える。揮毫は正二位勲一等男爵平沼騏一郎である。裏には「紀元二千六百年記念建之」とある。宮崎の「平和の塔」までではないが、その仲間だけに迫力がある。説明板を読んでみよう。
和気清麻呂公碑
この碑は記紀による日本建国二六○○年記念事業として昭和十五年(一九四〇)岡山県内教育関係者の寄付および奉仕によって建てられました。ここは地名を「大政(だいまん)」といい大政所に因むもの、すなわち古代の郡衙・郡家の跡と推定されて、当時清麻呂顕彰の風潮下で建碑地と決まりました。
この地での郡衙・郡家の存在を証する物は未確認ですが、近傍の地名を見ますと条里地割りに沿って古代山陽官道の駅(うまや)の跡と思われる地名である『尺所(しゃくそ)』(和気町尺所)がある上に『飼葉(かいば)』(和気町藤野・吉田)の地名もあります。また、郡田(こおりのた)を示す『香炉田(こおりだ)』(和気町日室)、郡治に因む『治部田(じぶのた)』(和気町藤野・吉田)、領巾田(ひれのた)(采女化粧田)を示す『古布羅田(こひれのた)』(和気町藤野)がつづき、郡総社であった宗堂の地名『宗堂』(和気町泉)もあります。
このように古代郡政関連の地名が周囲に多く並びますので、この辺りに郡衙・郡家があったとみて差し支えないでしょう。
なお、この碑から南西約一キロメートルのところに「天永三年(一一一二年)、大神主・和気朝臣欽行」の棟札を有する由加神社があり、また北東約一キロメートルには和気広虫・清麻呂と和気氏先祖・応神天皇を祀っている和気神社があります。
和気町長
やはりこの地は藤野郡衙だったのだ。遺構は見つかっていないが「大政」という地名が有力な証拠である。ゆかりの地に巨大な顕彰碑が建てられた。清麻呂の忠臣的側面が最高潮に達した瞬間だった。時は紀元二千六百年。同年に実施予定だった東京五輪は2年前に返上していた。国際交流は途絶え、国粋的な祭典ばかりが盛り上がった。
三度巡って来た東京五輪。世界各地から選手はやって来るが、一般市民との交流はない。疑うかのように検査ばかりされて、気持ちよい日本訪問ではないかもしれない。しかし私は選手の皆さんの来日を歓迎する。厳しい制約下で奮闘するヒーロー・ヒロインとして敬意を持って迎えたい。
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