「我田引鉄」という揶揄の句があるように、鉄道の敷設と駅の設置に政治家が果たした役割は大きい。岐阜羽島駅は大野伴睦センセイ、上越新幹線の浦佐駅は田中角栄センセイのおかげだと、まことしやかに語られている。近年も獣医学部の設置に際して、首相とのお友達関係が有利に働いたのではという疑惑があったが、なぜか関係者が続々と記録も記憶もなくしてしまうという不思議な現象が起きた。
駅を誘致して住民の歓心を買おうとする政治家は、実は古代にもいた。誰あろう、清廉潔白で知られる和気清麻呂その人である。清麻呂はなぜ駅を設けたのか。やはり票が欲しかったのか。票でなければ何なのか。
赤磐市松木に「和氣清麿公墳墓之地」がある。
奥に二基の石塔があり、大きいのが清麻呂、小さいほうは姉広虫の墓だと伝えられている。手前には和気清麻呂像があり、台座に次のように記されている。
国体擁護の神贈正一位護王大明神和気清麻呂公の尊像を此地に安置天地と俱に悠久に御勲の郷土と共に弥栄えん事を希ふ。
皇紀二千六百年記念 建立者謹書
道鏡に抵抗して皇統を守ったことが高く評価されている。紀元二千六百年、昭和十五年とはそんな時代であった。和気町にある大きな清麻呂像を以前に紹介したことがあるが、清麻呂の地元和気町ならいざ知らず、赤磐市にお墓があるのは不思議に思える。説明板を読んでみよう。
史跡 和気清麻呂公の碑
松木部落所有
清麻呂は、垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の曾孫、弟彦王の十一代の孫であるといわれている。
天平五年(七三三年)の出生で、延暦十八年(七九九年)に六十七歳で没した。神護景雲三年(七六九年)五月、輔治能真人(ふじのまびと)の姓を賜ったが同年九月には宇佐八幡宮の神託を奏上して大隅国(鹿児島県)に流された。宝亀二年(七七一年)本位に復された。
宝亀五年(七七四年)には姉広虫とともに、和気朝臣の姓を賜って貴族の列に加わり、備前美作の国造となり、延暦中、摂津大夫、民部大輔、中宮大夫を兼ねた。
和気公の分骨は美作備前の国に埋められたので、ここにも分骨が埋められたと思われる。
毎年三月一日が清麻呂塚のお祭りとなっている。
昭和五十六年十一月 赤磐市教育委員会
都で亡くなった清麻呂の分骨が埋められているとのことだが、なぜここなのかという疑問の核心に対する答えがない。そこで清麻呂の事績が詳細に記されている『続日本紀』に当たると、次のような記述が見つかった。延暦七年(七八八)六月七日条である。
六月癸未、美作備前二国国造中宮大夫従四位上兼摂津大夫民部大輔和気朝臣清麻呂言す。備前国和気郡河西百姓一百七十余人款して曰く。己等は元是赤坂上道二郡東辺之民也。去る天平神護二年、割て和気郡に隷す。今是の郡治は藤野郷に在り。中に大河有り。雨水に遭ふ毎に、公私通し難し。茲に因て河西の百姓屡(しばしば)公務を闕(かけ)り。請ふ河東は旧に依て和気郡と為し、河西は磐梨郡を建む。其の藤野駅家は河西に遷置て、以て水難を避け、兼て労逸を均せむと云。之を許す。
美作備前国造の和気清麻呂が次のように申し出た。
「備前国和気郡のうち吉井川西岸の百姓170人余りが心から言うには、『私どもはもともと赤坂郡上道郡東部の住民でした。さる天平神護二年(766)に和気郡に編入されました。郡役所は藤野郷にあるのですが、村との間には大きな吉井川が流れています。大雨になると渡れなくなり、西岸の百姓は公務に支障が出ております。』そこで、吉井川東岸地域は以前と同じく和気郡とし、西岸地域に磐梨郡を設置してください。また、藤野駅は西岸地域に移して、水害を避けるとともに仕事量を等しくするようお願いします。」
政府はこれを許可した。
天平神護二年の編入は、邑久郡の香登郷、赤坂郡の珂磨郷と佐伯郷、上道郡の物理郷、肩背郷、沙石郷である。平安期の「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「珂磨」駅が登場するから、これが藤野駅から移された駅家なのだろう。
「珂磨」の遺称地は赤磐市可真上、可真下であり、古代山陽道のルート上にある。駅家は小字名に馬次がある松木地内にあったとも言われているが、確定していない。いずれにしても駅家は西岸地域に移され、住民の負担は軽くなったはずだ。それは誰のおかげか。住民の訴えを真摯に受け止め、政府に働きかけてくれた清麻呂公に他ならない。人々が供養塔を建てたとしても不思議ではないだろう。
当時、清麻呂は中宮大夫という政府高官に出世しており、有権者にサービスしなければ失職するという危険性はなかった。清麻呂の駅誘致は、公平な負担を願う地域の声に政治家として真摯に応えた結果だったのである。この点、モリカケサクラ問題とは大違いであることを明記し、政治家の資質向上を強く訴えておきたい。
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