来年の大河『鎌倉殿の13人』が楽しみだ。団結しているように見えて意外にドロドロの権力闘争をしているのが鎌倉武士だ。そこからどんな物語が描かれるのか今からワクワクするし、豪華な配役も期待を高めている。
本日の主人公、木曾義仲は青木崇高さんが演じる。VOXYのCMが彼の魅力を余すことなく伝えてくれる。義仲という武将をどう捉えどのように演じるのか楽しみだ。粗野な田舎武士が都会の人々の気持ちをつかめず滅びましたとさ、という単純な話にはならないだろう。
実際にゆかりの地が各地に伝えられていることを思えば、義仲の人としての魅力は後世の人々の気持ちをつかんでいるといって差し支えない。本日は義仲を供養したという十三重塔を紹介しよう。
西脇市黒田庄町大門に「石造十三重塔」がある。市指定文化財(建造物)である。
木曾義仲は都落ちした平家を追って西へ向かい、備中水島での合戦に敗れているから、ここ播磨を通過したことは確実だ。一次史料『玉葉』で確認しておこう。寿永二年十月九日条である。
伝聞義仲経廻播州、若頼朝上洛者、可超北陸方、若頼朝忽不上洛者、可伐平氏、之由支度云々、
聞くところによれば義仲が播磨に滞在しているとのこと。もし頼朝が上洛したなら北陸方面に転戦し、すぐに上洛しないようなら平家を討つ。そんな準備をしているという。
義仲は確かに播磨にいたが、それ以上のことは分からない。しかし、京を迂回して北陸に向かうことも考え、西脇市に滞在していたとも考えられる。というのも、国道175号と国道27号を使えば敦賀に抜けることができるのだ。説明板を読んでみよう。
西脇市指定有形文化財 旭将軍 木曾義仲供養塔
この石塔の北方約百メートルのところには東光寺があります。周辺の田畑に寺の名称をもつものが幾つかあることや、寺に関する記録が残っていることから、この辺りには寺や堂宇がかなり点在していたようです。十三重の石塔は、塔の様式から、建立されたのは鎌倉時代後期(十四世紀)と推測されています。また、木曾義仲の供養塔と言われて来ており、東光寺の山号(さんごう)は木曾義仲の旭将軍にまつわる旭雲山(きょくうんざん)であり、更に、寺紋が丸に笹竜胆(ささりんどう)で、これは源氏の紋でもあります。
当十三重の石造層塔は、当地より南方約百メートルの所(大門字堂の前三百六番地)に建てられていましたが、私有地に囲まれ、わかりにくい場所であった為、より多くの方々に西脇市指定有形文化財(平成十年六月五日指定)であることを知っていただき、地図内外の交流の輪を広げ、地域の活性化を図ると共に、木曾義仲の人物像や、大門の地に建立された目的など、歴史に関心をもち続けることが供養と考え、平成二十四年(二〇一二年)十一月二十五日に、この地(大門字滝ヶ鼻二百十番地)へ移設されました。そして、この塔の下には、塔の形をした水晶が納められています。
(平成二十四年十一月移設時確認、高さ二・五cm、重さ二・五g)
木曾義仲 久寿元年(一一五四年)生誕 寿永三年(一一八四年)一月二十日死没
十三重石塔といえば巨大な「浮島十三重石塔」である。鎌倉時代を象徴する石塔だ。義仲とのつながりは東光寺というお寺の山号と寺紋なのだが、決定的な証拠とは言えない。それでも、火のない所に何とやらで、言い伝えそのものが有力な手掛かりなのかもしれない。
木曾殿と背中合わせに眠る松尾芭蕉。『木曾義仲論』で「彼は自由の寵児也。彼は情熱の愛児也。而して彼は革命の健児也。」と絶賛した芥川龍之介。文豪が追いかけた人としての魅力を『鎌倉殿の13人』はどのように描くのか。自民党総裁選が小石河連合の敗北に終わった。河野さんは木曾殿か、判官殿か。いつか鎌倉殿になれる日が来るのだろうか。