箸の材質は何がよいだろうか。黒檀とか紫檀、鉄木など東南アジア産の木材は硬くてちょっとした重みを感じる。国産であればヒノキ、ヤマザクラが上品さを醸し出す。珍しい素材ではビャクシンもある。このビャクシンの箸は使った後に地面に突き立てておくと木として成長を始めるという。ほんまかいな。
真庭市落合垂水の箸立天満宮に「箸立天神いぶきひば」があり、県の天然記念物に指定されている。
この木はヒノキ科ネズミサシ属の常緑高木ビャクシンである。ビャクシンは雌雄異株でこの木は雄株らしい。樹高13mで、推定樹齢は700~1000年以上ということだ。神社の由緒書には次のように記されている。
菅原神御父文章博士是善公天安元年(八五七)五月八日美作権守(国司)に任ぜられ、美作守領の当時翌二年菅公十四才の時、故あって美作久米郡八出村を経て、当字横森現今九百六十八番の地に御来着、此所において、御食事を遊ばされ、その御使用の御箸を立て置かれたところ、不思議にも根を降ろし、芽を生じ成木したと伝えられる。
ここが菅公ゆかりの地であることは知っていた。大宰府に向かう途中で立ち寄ったにしてはあまりにも内陸に位置しているから、荒唐無稽な伝説かと思っていたが、そうではない。美作守である父親に連れられての来訪だった。
菅原是善の任官については『日本文徳天皇実録』巻九天安元年五月甲辰条に次のように記されているから間違いない。
従四位下菅原朝臣是善為美作権守。文章博士左京大夫如故。
実はこの時の元号「天安」も当地ゆかりである。美作国が献上した白鹿が瑞兆と認められ改元に至ったのだ。この時代までしか見られない祥瑞改元である。こんなおめでたい時代に菅公一家が美作の地にやってきていたとは。
由緒書に「久米郡八出村を経て」とわざわざ記されているが、津山市八出(やいで)には道真公を祀る八出天満宮がある。説明板には次のように由緒沿革が記されている。
菅原道真公の父是善が天安元年(八五七年)美作国司として赴任されておられた。この時この国に病気がはやっていることをお聞きになられた菅公は父の病気を心配して遠く京都から見舞に来られたが父の病気は既になおっておられ安心して帰ろうとされた。ところが里人は別れを惜しんでこの地に駐(とど)まってもらうよう念願した。そこで菅公はこの地の観音寺に留まって木工に命じて自分の像を刻んでもらい「汝この像を観ること吾を観るごとし」と里人に自像を渡して遂に帰京された。
里人は菅公の恩徳を慕い祠を建てこの像をお祀りした。菅公がこの地に八日留まって出られたのでこの地を「八夜御出村(やよおでむら)」と呼んでいたが後略して八出と言うようになる。こうして学問の神・菅原道真公を祭神とする八出天満宮ができた。
なるほど相通じる伝説があることが確認できる。八出天満宮を勧請して箸立天満宮ができたと考えるのが「久米郡八出村を経て」の合理的な解釈かもしれない。
いや本当は、道真くんが滞在していた八日間に、父是善はせっかくだからと美作西部へと親子でお出掛けをしたのだろう。いたずら好きの道真くんは、食事の箸を片付けずに地面に突き立てたのかもしれない。それが今ビャクシンの巨木となっているのだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。