武道は高校時代に選択授業で柔道をやっただけだ。その時わかったのは、組むなら上手い奴と組め、ということである。同じくらい下手だともつれて危険だ。それに対して柔道部は瞬殺してくれるので、心地よく宙を舞うことができる。
そんな調子だから武道を語る資格はないのだが、生兵法を承知で竹内流という古武道の話から始めよう。天文元年(1532)創始と伝えられ、柔術の源流とも呼ばれる。開祖は竹内久盛(たけのうちひさもり)という美作国垪和(はが)村の武士である。もとは京の生まれで縁戚の八郎為長と備中守為就の兄弟に招かれて当地に来たという。
別説では垪和為長に招かれたのは父の幸治で、久盛は垪和の生まれだともいう。竹内家は堂上源氏で六孫王経基にまで遡ることができるという名家である。明治になってからは子爵となった。その一族が作州垪和に下向していたというのだ。
作州史の基本文献『作陽誌』西作誌中巻久米郡北分山川部に掲載されている系図では、垪和八郎為長と杉山備中守為就は兄弟で、為長の子に竹内善十郎為能がいて、為就の子には竹内中務丞久盛がいる。垪和氏、杉山氏、竹内家と様々な名乗りが登場してよく分からないが、戦国作州に生きた彼らは城を持っていた。そこは毛利氏と宇喜多氏の激戦地でもあった。
岡山市北区建部町鶴田と建部町角石谷(ついしだに)の境に「鶴田(たづた)城」があった。旭川沿いの県道30号を北に向かえば久世盆地へ、県道70号なら津山盆地へ抜けられる。交通の要衝に立地していることが分かる。
登城口は県道30号から和田南(大蔵)へと向かう細道沿いにある。路肩に車を停めて山に分け入ると、堀切を経て広い平坦部に出る。一部に残る石垣を確認し、西奥の曲輪に進むと城主を偲んだ石碑がある。
城主
芳賀八郎為永
杉山備中守為就
天保十二辛丑暦
八月中旬建之
碑を建てたのは地元の杉山一族の方々で「杉山喜平太為雅」「杉山彦兵衛為義」などと武将のような名乗りがたくさん刻まれている。城主の末裔であることに誇りを持っているのだろう。
谷を隔てて北側にもう一つの堅城がある。行ってみよう。
岡山市北区建部町角石谷と建部町和田南の境に「高(たかん)城阯」がある。鶴田城とは隣り合わせといえ、移動にはずいぶん距離と勾配があって苦労する。
石碑には「城主竹内善十郎為能」と刻まれている。為能の父は備中守為長だから鶴田城と密接な関係のある城だ。この城は天正八年(1580)に毛利と宇喜多の激戦があったという。矢吹正則『美作略史』(明治14)巻之二には次のように記されている。
八年(庚辰)二月直家攻高城不下(作陽誌、小坂家記、竹内家記)
城(久米北条郡和田南村)は竹内為能(善十郎、垪和八郎為長の子)杉山久正(四郎兵衛、新三郎為且の子)の拠る所なり。竹内杉山は同族にして世々垪和郷に住し尼子氏に属す。尼子氏亡て後孑然孤立す。近年芸備干戈止むなく国中擾乱し終に独立す可らざるを以て、為能乃ち二弟為明(宗四郎)為信(孫三郎)従弟竹内久盛(中務丞、杉山備中守為就の第二子、中垪和谷村一瀬城主、竹内流の開祖なり)及び杉山為忠(又三郎、源兵衛為正の第四子)等と族を挙て毛利氏に属す。輝元大に喜び庄多治部石蟹某を以て応援とし庄原兵部を以て検使とし之を遣はす。且成羽越前守粟屋惣兵衛に命じて緩急相援はしむ。岸氏秀(備前守、久米南条郡籾村龍王山城主)難波左馬進菱川源四郎等亦来て城中に在り。直家乃ち兵を発し明石行雄(飛騨守)平尾弾正忠菱川源太を以て先鋒と為し戸川秀安岡家利をして之に継がしむ。行雄等蕨尾山松端山(並久米北条郡三明寺)に陣し日に戦いを挑む。三月十七日為忠蕨尾山の営を斫り撃て行雄を走らす。久正亦源太を岩柄(同郡上打穴村)に撃て之を殺す。閏三月久正亦弾正忠を斬る。城将岸氏秀戦死す。其部士赤木弥三郎亦小坂与三郎(浦上氏亡後宇喜多氏に仕ふ)の殺す所と為る。此時に当り輝元直家と将に雌雄を決せんとし三吉隆慶平賀元祐志道広好をして赴き援けしむ。直家芸兵の日に加ふるを聞き四月自ら精兵を将ゐ仏教寺(久米南条郡仏教寺村)に陣し、二十八日大挙して城を攻む。城兵能く拒ぐ。遂に下す能はず。新免氏の麾下春名重勝先登して城士河本又四郎を斬る。
宇喜多勢が大挙して高城を攻めたが陥落させられなかったという。毛利勢の竹内氏らがよく防いだのは一次史料で確認できる事実なのだが、戦いの結末も天正八年八月二十三日付の宇喜多直家感状写(備前北野加茂村源八所蔵文書)から知ることができる。
高城之者追散其上竹内籾村口へ落候處被討捕候段無比類候
高城に籠っていた者を追い散らし、竹内為能が籾村口に落ち延びた所を討ち取ったことは比類なきことである。直家に仕えた小坂与三郎に対する感状である。高城は最終的に宇喜多の手に落ちたようだ。本能寺の変まで、もうしばらくある。毛利と宇喜多の激闘はなお続く。
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