「おぬしもなかなかの悪よのう」「いえいえ、お代官さまほどでは」「なに、わしを悪人呼ばわりするとな」「めっそうもございません。お代官さま」と、代官といえば、悪代官のイメージが強すぎる。しかしそれは失礼な話で、美作国内の天領には早川代官のような名代官もいた。本日は同じ美作国内の上州沼田藩領の恩情代官の話をしよう。
美作市豊国原の五十嵐山に五十嵐神社があり、「五十嵐十九郎頌徳碑」が建てられている。
五十嵐十九郎は上州沼田藩の代官である。美作国内の沼田藩領については「名門土岐氏が領した棚田」で紹介したことがある。その記事で「海内の代官は大変な権限を持っており、その名を聞けば泣く子も黙るといわれたぐらいで、民衆からは非常に恐れられていた。」という一文を紹介したが、本日紹介の十九郎代官は、その徳が讃えられるほど敬慕されているという。どのようなお代官さまなのか。碑文を読んでみよう。
五十嵐十九郎殿
氏は上州沼田藩主土岐氏の家臣にして英田郡海内代官所代官を命ぜられ
善政を施く当時我が豊国原は原村と称し土岐氏の領有に属し海内代官所の
配下として上之村に編入せらる此故に貢米他領に比し甚だ高額にして農民
は貢米供出に苦しむしかのみならず当時連年に渉り凶作悪疫其の惨状筆舌
に絶す氏会々民の訴を聞き具さに民情を視察し直ちに上藩し藩主に原村貢
米の軽減を嘆願す然れども藩主の聴くところとならず茲に於て氏意を決し
屠腹自刃し血書を以て再び哀願す時に明和二年八月十五日なり之れがため
に藩議氏の誠義と農民の苦悩を愍み遂に原村貢米を減額す 爾来原村農民
は氏の恩義を徳とし此地に一祠を建て五十嵐神社と称し年々祭祀を絶たず
今当さに氏逝きて二百年を迎えるに当り此の碑一基を建て其の霊を慰め其
の徳を頌し以て永く其の蹟を後世に伝んと欲すと 爾云う
銘に曰く 殺身成仁 民炊煙賑
頌徳歓喜 苔石永伝 浜田研堂撰
維時昭和三十九年九月十五日 豊国原住民一同
昭和半ばにしては古い文体で記されているが、内容は分かりやすい。切腹して年貢減免を訴えた代官がいたのだ。島田秀三郎『心のふるさと美作伝説考』の「五十嵐神社の伝説」の項には、もう少し劇的に次のように記されている。
明和二年(1765)、重九郎は妻子と水盃を汲み交して単身カゴで領主の国替え先の信州沼田へ出発した。沼田に着くや、翌日奉行所に出頭、豊国原の窮状を訴えてその救済方を具申したが入れられなかった。宿への帰途、重九郎はカゴの中で自刃して果てた。沼田田中藩の記録には藩士五十嵐重九郎の自害事件が無いが、それに日時も該当する無名浪人の自害事件が記載されているという。
駕籠から血がしたたり落ちて大騒ぎになったことだろう。これは藩にとって不祥事以外の何ものでもない。記録されなかったのは当然だろう。ちなみに信州は上州の誤り。沼田田中藩というのは存在せず、沼田藩主土岐頼稔の前任地が田中藩だったということだ。
似たような自害事件を「薩摩義士血涙史の誕生」で紹介したことがある。自刃による訴えは本当にあったのだろうか。『美作町史』地区誌編第二章豊国(旧豊国村)第五節豊国原二豊国原をめぐって2「恩情代官と五十嵐神社」によれば、沼田市の郷土史家が『沼田領代官覚え書』で次のように指摘しているという。
ア.五十嵐代官以前にも、作州に来た代官二人が自決している。藩と領民との板ばさみになったためであろう。
イ.五十嵐十九郎という代官は親子二人(忠俶(ただとし)と恭周(やすちか))いて、自決したのは四十歳で死んだ父の忠俶の方であろう。
ウ.自決の年が碑文に書かれている時代の明和二年(一七六五)と、『豊国村誌』の寛政六年(一七九四)と二説あるが、どちらも疑問がある。明和二年の代官は真柄次郎左衛門であり、十九郎忠俶の死亡は宝暦六年(一七五六)となっている。
エ.沼田では忠俶切腹の記録はないが、四十歳での急病死の裏に、藩の汚点となる切腹を伏せたと思われるふしがある。子の恭周が十四歳で代官並みとなる破格異例の恩賞的待遇をうけている。
オ.延享三年(一七四六)、作州が大風で稲作の大被害を出し、その惨状に藩は五百両の大金を領民に貸した。高すぎる年貢を考えて十九郎は「なにとぞ年賦金の未償還の分と年貢の減免を」と願い、血書の嘆願書を残して切腹したのではないか。
カ.十九郎忠俶が死んだのは、作州の窮状を救ってから十年後である。『豊国村誌』の寛政六年説は、当時の世相を分析して無理があり、宝暦六年(一七五六)と取り違えたのではあるまいか、など
まず、代官が二人も自決していることに驚く。なのに五十嵐代官はなぜ記録されていないのか。よほどの不祥事だったからか。父が不祥事を起こして、子が破格の待遇を受けるだろうか。いったい、いつからこの伝説は語られているのだろうか。
働き盛りで亡くなった名代官を悲劇のヒーローに仕立てたのかもしれない。いずれにしても上州の人が遠く離れた作州の人々を救い感謝されているのだ。地域単位に完全に独立している現代の地方制度下ではありえず、飛地が存在した江戸期ならではのエピソードといえよう。
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