山城には必ず削平された曲輪がある。しかしながら、山中の平らな土地が必ずしも山城とは限らない。本日扱う山城は『美作国の山城』には掲載されているが、『岡山県中世城館跡総合調査報告書(美作編)』では扱われていない。いったい、どういうことだろうか。
津山市小原に「平家ヶ城」がある。いわくありげな名の城は本丸が広々としている。おそらく眺望もよいのだろう。
近くに「神楽尾城」という県北屈指の名城がある。その支城ともいうべき位置関係だ。それにしては防御が薄いように思える。美作史の金字塔『作陽誌』を紐解いてみよう。西作誌上巻苫南郡山川部苫田郷の「神楽尾城」の項には、次のように記されている。
本城東故塁号平家城相伝朱雀帝承平年中城之後宇都宮下野入道教貞者処此其霊祠号宇都宮神社士人至今享祀
神楽尾城の東に古い城があり、平家城という。伝えるところによれば、朱雀天皇の承平年中に築かれ、のちに宇都宮下野入道教貞がここに拠った。そこにある祠は宇都宮神社といい、人々は今に至るまで祀っている。
承平年中とは平将門の時代である。その頃、西日本でも武士団が抗争していたというのか。俄かには信じがたい。宇都宮氏は下野の名族だが、美作とどのようなゆかりがあるのか。『苫田郡誌』第十七章古城址・墳墓・古墳の一項「平家ヶ城」の記述も確認しておこう。
西苫田村大字小原に在り、神楽尾城の地脈にして別に一山を為せり。相伝ふ朱雀帝の承平中築く所なりと後宇部(※都ヵ)宮下野入道教貞此に居る。城の東方一町許に宅址あり教貞の部将八木治部広次此に居る、教貞・広次等皆正平建徳中の人なり。
教貞は南北朝期の人のようだが、それ以上は分からない。しかも平氏が登場しないのに、なぜ「平家」なのか。由来も謎だし、山城かどうかも不明確。津山城の麓で朱が映える千代稲荷神社は「承平四年九月十九日」に奇瑞が生じたことで創建されたと伝わるから、「承平」も何らかの意味を持つのかもしれない。
瀬戸内には平家の伝承がたくさんあるが、中国山地には珍しい。承平→平将門→平家という連想と山城だったのではという想像力。史跡の楽しみ方の一つを垣間見たように思える。
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