十年以上前のことである。リビアのカダフィ大佐が血まみれになって拘束される映像とともに、その死亡が報道された。国連演説で国連憲章を放り投げたとか、セントラルパークにテントを設営しようとして拒否されたとか、エピソードが懐かしい。結局テントが建てられたのはトランプ氏の土地だったというから、因縁めいた話に聞こえる。
敵対する勢力に追い詰められて命を落とす。非業の死を遂げた武人は古今東西数えきれるほどいる。世界に報道される死もあれば、世界の片隅でひっそりと供養される死もある。本日は播磨の名族宇野氏の最期をレポートしよう。
宍粟市千種町千草(ちくさちょうちくさ)に市史跡に指定されている「宇野氏墓所」がある。
端正な五輪塔と板碑が大切に祀られている。宇野氏は守護大名赤松氏の重臣で、西播磨に大きな勢力を有していた。赤松氏はけっこうあっさりと秀吉に臣従したが、宇野氏は抵抗する姿勢を変えなかったようだ。詳しい説明板があるので読んでみよう。
宇野主従供養碑について
ここに四基の五輪塔と板碑一基があります。新宮峠で自刃した宇野主従の供養碑です。
宇野氏は、播磨の国守護赤松氏の重臣で、室町時代前期には篠ノ丸城(宍粟市山崎町上寺)で西播磨の守護代を務めていました。
戦国時代は、全国に大名が割拠して争う「下克上」の戦乱が続く時代でしたが、天下統一をおし進めたのが織田信長です。
織田信長は、浅井、六角、朝倉、松永、三好、武田、など戦国大名を敗亡、屈服させ畿内とその周辺の国々を制圧し、天正四年(一五七六)羽柴秀吉に毛利氏を討てと命じました。
秀吉は、まず毛利氏が播磨へ進出する拠点であった赤松政範の上月城を攻め落とし、西播磨に兵を進めました。播磨の国守護の置塩城主赤松則房や龍野城主赤松広英は戦意なく降伏しました。
江戸時代になって書かれた『長水軍記』などによると、天正八年(一五八〇)四月姫路を出発した秀吉の大軍は、途中林田の松山城を降伏させ香寺の恒屋城や新宮の香山城を落し、長水支城の篠ノ丸城や砦を攻め落とし、八千余人で長水城を包囲しました。
宇野勢は良く戦いましたが、城は炎上、宇野の主従は、ひそかに城を脱出、宇野勢は、秀吉軍の追跡を受けながら、山中をぬけ、小茅野、鷹巣、岩野辺を経て河呂の麻佐淵の渡瀬まで逃れていきました。
ここを越えて宇野政頼の三男で作州竹山城主の新免伊賀守宗貫を頼って、落ちのびようとしたのです。しかし、梅雨時の洪水で渡河できず、対岸の山の猫石から吹く救援到着の合図の笛を、すでに前面にも敵がと誤認。千草町に充満する敵軍の中を切り抜けて、岩野辺の新宮まで引き返し主従とともに、自刃しました。その後、この山を笛石山といいます。
宇野政頼の5才の末っ子は、乳母に守られ、船越山の瑠璃寺に逃れ、長じて船越山二十七世中興法師権大僧都真賢大和尚となりました。
法印は政頼の三十三回忌にあたる慶長十七年(一六一二)に、慰霊菩提のため、この地に供養塔を建立し、盛大な法会を営んだといいます。千種の人は、お塚さんと呼び、今でも供養が続けられています。
「五輪塔」四基
為 花林泉祐居士菩提(宇野右衛門佐祐光 政頼従弟)
天正八庚辰年五月九日討死
為 松山専哲居士菩提(宇野下総守政頼)
天正八庚辰年五月九日討死
為 花月宗泉居士菩提(宇野采女正祐政 政頼従弟)
天正八庚辰年五月九日討死
為 心月祐清居士菩提(宇野民部大輔祐清 政頼次男)
天正八庚辰年五月九日討死
「板碑」一基
宇野内匠 宇尾墨勘助
安積久蔵 春名修理
廣瀬七郎兵衛 小林三河
下村治郎左衛門 石田小兵衛
石原勘解由 横治三郎兵衛
神山但馬 阿甫助太夫
女房二人
場所 宍粟市千種町千草字大寺
平成二十七年三月三十一日
しそう観光協会
長水城については以前の記事「秀吉の播磨攻め、最後の攻防」で紹介した。東から織田氏、西から毛利氏の勢力が迫ってくると、宇野政頼は悩んだ。織田方についたこともあったが、最終的には毛利方を選択したことから秀吉軍のターゲットとなり、落城の憂目に遭うのである。
政頼は嫡男満景を篠ノ丸城に置いたが不和となって粛清し、次男祐清とともに長水城を守った。三男は美作竹山城の新免氏に入り宗貫と名乗ったという。その宗貫を頼ろうと、長水城を出て北へ向かった。千種町河呂にある笛石山を前にして逃亡を断念したという。志引峠か上乢で美作へ入るつもりだったのだろう。
ところが天正八年(1580)当時、宇喜多氏は毛利氏から離反しており、宇野主従が宇喜多氏配下の新免氏にもとに逃れても、身の安全が保障されたかどうかは分からない。笛石山から聞こえた笛の合図は救援ではなく、本当に敵対勢力によるものだった。事実誤認の伝説は物語の悲劇性を増すための脚色だったのだろう。
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