「咸宜」とは「ことごとくよろし」という意味だそうだ。人生そのように理解したいものだと、つくづく思う。この語を冠した私塾「咸宜園」が豊後日田にあり、以前の記事「教育県大分の偉大な先人」でレポートしている。創立者は廣瀬淡窓、二代塾主は弟の旭荘である。
その旭荘の手に成る古碑が、大分県ではなく鳥取県の山の上にある。なぜ山の上なのか。漢字ばかりの碑文をたどると、この地で歴史が動いたことが讃えられていた。
鳥取県東伯郡琴浦町山川の船上神社前に「船上山之碑」がある。
右端に「豊後廣瀬謙撰并書篆額」とあり、左端に「安政四年歳在丁巳夏六月立碑」と刻まれているから、廣瀬旭荘が撰文、書、篆額のすべてに関わり、安政四年(1857)に建碑されたことが分かる。長い碑文の中から後醍醐天皇に関わる部分だけ抜粋しよう。
元弘三年閏二月 後醍醐帝出隠岐幸伯耆名和港土人名和長年奉 車駕登船上山御干仏寺翌日賊来犯長年薫布作旗以張疑兵歒望畏之遂敗三月 帝親修金輪法以祷戦勝五月北条高時伏誅 帝発船上山入京師
元弘三年(1333)閏二月二十四日、後醍醐帝は隠岐を脱出して名和港に着いた。地侍の名和長年が船上山にお連れして、帝はお寺に滞在された。同月二十八日、敵が攻めてきたが、長年が布で旗を作って多数の兵に見せかけると、敵はビビッて遂に敗れてしまった。三月、帝は金輪法の修法により戦勝を祈祷した。北条高時は自害に追い込まれ、五月二十三日、帝は船上山を発して京に入った。
天然の要害、船上山の山上は広い。帝の行宮はどこにあったのだろうか。
船上山上に「船上山行宮之碑」がある。題字は閑院宮載仁(ことひと)親王である。側に似たような碑が倒れている。施工中に倒壊したものだという。
古色蒼然としているが、いったいいつ頃の碑だろうか。碑文を読んでみよう。
元弘三年閏二月名和長年後醍醐天皇を奉じて船上山に拠り寺坊を以て行在所となす。賊軍来り攻む。長年奮戦大捷以て叡慮を安んじ奉る。駐蹕八十余日、逆臣誅に伏するや乃車駕京師に還幸し建武中興の大業就る。
東伯郡教育会碑を建て以て之を表はさんことを倡ふ。本会其議を容れ県下学校の職員生徒児童に檄して義金を募る。東伯郡は特に其総費の半を醵出し且同郡教育会は建碑事務一切を掌る。成功に及び其由る所を記すこと此の如し。
大正十三年六月
鳥取県教育会
建碑からまだ百年を経ていないようだ。碑を建てた教育会は教育関係者の民間団体である。歴史教科書に登場する史跡として顕彰したのだろう。しかし、その当時は行宮跡の正確な場所が分かっていなかった。
船上山上は「船上山行宮跡」として国の史跡に指定されている。「船上山之碑」から奥へと進むと「後醍醐天皇行宮跡」がある。
土塁に囲まれて、それらしい空間に思える。すぐ側は智積寺本堂跡があるが、このお寺は享禄三年(1530)創建で、後醍醐帝の時代には金石寺があり、船上神社の北側に本堂があったようだ。説明板を読んでみよう。
国指定史跡 昭和7年5月3日指定
船上山行宮跡
後醍醐天皇行宮跡
後醍醐天皇は元弘3年(1333年)の船上山合戦に勝利した後約80日間この地に行在されて政治も執られた。そして、昭和7年5月には「船上山行宮跡」として国指定の史跡となった。しかし当時行宮跡は確定できずに頂上一帯が指定区域となった。
その後第二次大戦等により研究が途絶えたが、近年地元に残る「伯耆民談記」「伯耆民諺記」並びに智積寺関係書文書等地元教育委員会、郷土史家が中心となり研究を行った。
この結果、「伯耆民談記」に見られる『後醍醐帝御座跡は、本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり』よりこの屋敷跡を、後醍醐天皇が船上山に行在されたときの「宮跡」とする説も出されている。
琴浦町教育委員会
いずれにせよ、後醍醐帝はここ船上山に約80日間滞在し、多くの綸旨を発している。このため「船上山朝廷」(『船上山案内記』立花書院)という呼び方もあるようだ。
この間、足利高氏が味方となり六波羅探題が滅亡、鎌倉幕府は終焉を迎える。帝は時代の流れを完全に我が物にされていた。建武中興の偉業は船上山から始まった、と言って過言ではなかろう。咸宜「ことごとくよろし」は、船上山に滞在していた頃の後醍醐帝にこそふさわしい。
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