「ふるさとの山はありがたきかな」と詠った啄木がすごいのは、誰もが日頃思っていることを言葉にしたことだ。曖昧模糊とした思いが明確になる爽快感。天才なのは雲ではなくて啄木自身なのだ。
私にとってふるさとの山は「金甲山」である。兜のような美しい山容を見るたびに心に重なり、すっかり人生の原風景となっている。学校に通っていた頃、遠足からの帰途にバス酔いをしてしまった。その時、金甲山が目に入ったのだが、いつもとは違う方向に見えて吃驚したことを憶えている。それくらい印象的な山なのだ。
倉吉市の人々にとってのふるさとの山は「打吹山(うつぶきやま)」なのであろうか。遊歩道を上へ上へと進むと、城跡を示す碑があった。
倉吉市仲ノ町の打吹山に「打吹城址」がある。
遊歩道が整備されて散策に適している。標高は204mで登りやすい。いったい、どのような歴史がある城なのだろうか。碑文を読んでみよう。
打吹山は高さ二百米。倉吉市の中央にそびえる林相の美しい山である。およそ六百年前因伯の守護山名伊豆守時氏の子左衛門佐師義がここに城を築いて田内城から移った。
この山をえらんだのは険しい独立山であること、ふもとを巡る諸川が防禦線となること、頂上から四方の要害に見張りがきくこと、飲料水を汲む井戸が幾つも得られたことなどによるのであろう。
時氏師義は源氏の一族として有名な武将であり、それに従う伯耆武士の強さも諸国に鳴りひびいていた。山名氏は天下六分一殿といわれた時代もある。その後盛衰はあったが十代二百年間この城は伯耆一国の中心たる権威を失わなかった。戦国の末山名氏が滅び、さすがの打吹城も荒廃して顧みるものなく、むなしく四百年の歳月を経た。
明治の末公園を開いたが、このたび史蹟を明らかにするため頂上を清めて、ここに碑を建てた。このあたりを歩けば一木一草にも懐古の情がわくであろう。
また打吹という名が天女の羽衣伝説によることは人々のよく知るところである。耳をすませば天来の音楽を味わうことができるであろう。
わが愛する倉吉市はむかし城下町としてこの歴史ある山のふもとにうぶ聲をあげたのである。
倉吉市誌編さん委員会撰
打吹という地名は羽衣伝説に由来するという。羽衣を隠した男は天女と結婚することができたが、やがて大きくなった子ども二人が「これは母さんの着物だ」と羽衣を見つけてしまう。天女はこれ幸いと羽衣を纏って天に昇ってしまう。残された子どもたちは「母さん、帰って来てよー」と太鼓を打ったり笛を吹いたりしたということだ。それで「打つ吹き」となったという。
倉吉市葵町の賀茂神社の境内に「夕顔の井戸」がある。
説明板には、次のように記されている。
むかし、この井戸のほとりに夕顔がありました。その葛を伝って天女が天に登っていったと伝えられています。又の名を、清先(きよさき)の井戸ともいいます。
残された二人の子供は近くの天に一番近い高い山に登って鼓を打ち笛を吹き鳴らして母を恋い慕ったそうです。それからその山を打吹山と呼ぶようになりました。
賀茂神社社務所
さて、時氏・師義父子が築いた基盤の上に山名一族は繁栄の時代を迎える。一族5人で11か国の守護職を占めたのである。この状況から山名氏は後世「六分一殿」と呼ばれた。ところが、一族の内紛が発生し、これに付け入った将軍義満が山名氏の勢力削減に成功する。明徳の乱である。山名氏の守護領国は但馬、因幡、伯耆の3か国になった。
このうち伯耆の守護職を得たのが、師義の子氏之である。後裔は伯耆守護家としてこの地を治めた。『倉吉町誌』(昭和16年)の山名氏系図には、次のような系譜が掲載されている。
時氏-師義-氏之-熙之-教之-豊之-政之-澄之-入道-氏豊
これが碑文に記された「十代二百年間」に相当するのだろうか。ただし、戦国末期の打吹城は山名氏の手を離れたようだ。
打吹山の中腹に「打吹城備前丸」がある。草木が茂って全容は分からないが、広く平坦なことは確認できる。
備前丸は姫路城にもあり、池田氏時代に城主の居館があった曲輪である。輝政の次男忠継は備前岡山を領したが、幼少のため母とこの屋敷で暮らしていた。このため備前丸と呼ばれるようになったという。打吹城はどうだろうか。
打吹城備前丸
打吹城は、室町時代の始め頃に伯耆守護山名氏によって築城されたと伝えられています。戦国時代の終わり頃、羽衣石城主(湯梨浜町)南条氏が支配する城となり、一族や家臣が城番として派遣されました。この備前丸は、山頂の本丸を守るため、南条備前守が住んだといいます。尾根を削って平坦地(曲輪跡)を造り、建物や柵が設けられていました。備前丸の他にも、越中丸や小鴨丸と呼ばれる曲輪跡が打吹山は多数残っています。その後は米子城主中村一忠が支配する城となりましたが、元和元年(一六一五)に取り壊されました。
こちらの備前丸は岡山には関係なく、守備に当たった武将の受領名に由来するようだ。権勢を誇った山名氏は尼子経久の勢力伸長に伴い衰退する。尼子氏没落後の打吹城は、毛利氏配下の羽衣石城主南条氏が支配した。備前守は南条宗勝の弟信正の受領名である。
南条氏は豊臣政権下の大名となったが、関ヶ原で西軍に与して改易となり、伯耆一国は中村一忠に与えられた。名族山名氏の伯耆守護家はどうなったのだろうか。最後の当主氏豊は天正八年(1580)八月、南条氏配下として毛利氏と戦い、敗走して討ち取られたという。『伯耆民談記』巻之第十一河村郡古城之部「羽衣石の城南條伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事」には、次のように記されている。
山名小三郎は、散々に打悩まされ、倉吉の居城に帰ることも叶はず、山中に遁げ入り、因州鳴瀧村といふ所にたより着きしが、此時小林源蔵といふ者只一人附添居たり。然るに所の山賤樵夫ども二十余人山の間にて是を見付け、定めし昨日の合戦の落人なるべし、只打殺して物具等を奪はんと大勢山刀斧などを以て立向ふ。多勢に取囲まれ主従共に打殺されぬ。
故郷に帰ることも叶わず、無念の死を遂げた氏豊。打吹山をもう一度見たかったに違いない。窮地に陥って前後不覚となったとき、自分を取り戻させてくれるのは、やはりふるさとの山だろう。ふるさとの山に向ひて言ふことなしだ。
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