リーダー論における「よそ者」と「生え抜き」。みなさんならどちらを支持するだろうか。よそ者には既存の考えに拘泥されない革新性がある。イノベーションはよそ者によって起こされるのだ。大企業でもプロ野球でもいい、思い起こせば他所からやってきたCEOや監督が成功した例はたくさんある。
だが、日本人に沁みついた感情として、同じ釜の飯を食った仲間だから分かり合えるものがあるのは確かだ。生え抜きだからこそ、絶対的な信頼感が生まれる。
よそ者か生え抜きかは現代だけの問題ではない。本日は幕末の津山藩をリードしたよそ者藩士を紹介しよう。
津山市山下の鶴山公園内に「贈従四位鞍懸君碑」がある。題額は貴族院議員正四位勲四等子爵松平康春(旧津山藩主家)、撰文は内閣総理大臣正二位勲一等法学博士男爵平沼騏一郎である。昭和十四年七月の建碑であるから、短かった総理在任中に平沼が地元に遺した貴重な顕彰碑である。
鞍懸寅二郎は明治二年(1869)から津山藩の権大参事を務めたリーダーである。権大参事とは版籍奉還後の藩に置かれた役職で、任命するのは旧藩主の知藩事ではなく政府である太政官であった。権大参事の鞍懸は明治四年(1871)に民部省の官吏に抜擢されたが、これは津山藩から引き抜かれたのではなく、二つの政府機関の兼務を命じられたのであった。それくらい優秀な人物だが、津山藩の生え抜きではない。出身は赤穂藩というよそ者で、若くして勘定奉行まで務めたキャリアを持つ。能吏は職場を選ばないのだ。
鞍懸寅二郎の生涯については以前の記事「貞烈で純孝な母子の顕彰」で紹介した。政治的な立場は長州シンパの尊王攘夷派で、長州征伐には大反対だった。それゆえ新政府の覚えもめでたかったのだろう。
慶応四年(1868)、徳川慶喜から田安亀之助への徳川宗家の家督相続が決定されると、前津山藩主松平確堂(斉民)に後見が命じられた。このことから藩内では旧幕府に同情的な藩士が大勢を占めるようになった。彼らにとって政府と一体化する鞍懸寅二郎は異分子以外の何者でもない。顕彰碑の碑文から、寅二郎の最期の部分を抜粋しよう。
会詔廃藩為県君慮藩士疑懼請暇帰国訪議事局副議長河瀬重男商量夜正三更辤出門有賊戕君年卅八
廃藩置県の詔に際し寅二郎は藩士の動揺を考慮し、暇を請うて帰国し議事局副議長の河瀬重男を訪ねて相談した。夜中の十二時頃に挨拶をして門を出たところに賊がいて殺されてしまった。享年三十八。
明治四年(1871)八月十二日のことであった。津山県当局は、その夜の外出者、在宅者を書き出させるよう命じたが、結局のところ未解決事件となった。この頃、下級武士たちはやきもきしていた。士族に入れてもらえるのか卒なのか、はたまた軽卒なのか。四民平等の考えなどこにもなかった。
そこで、旧藩主松平家は旧藩士の将来の生活の一助にと、手元に蓄えておいた金子を配当した。そして、これを「我等永訣之寸志に候」と述べたという。この金子がどれだけ不平不満を解消したのかは分からないが、涙を流さない者はいなかったのではないか。
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