九十九という地名で有名なのは西海国立公園の九十九島だろう。「くじゅうくしま」と読む。本日紹介するのは九十九山で「つくもやま」と読む。なぜ九十九を「つくも」と読むのか。
『伊勢物語』に「百年に一年たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ」という歌がある。「つくも髪」とはツクモ草のような白髪。「百年に一年たらぬ」とは百-一=白、つまり100-1=99ということ。それゆえ「九十九」=「つくも」となったのである。
岡山市南区片岡と川張の境にある九十九山の頂上に「丸山城址」がある。
「九十九山」の表示と三等三角点「片岡」がある。標高171.4mで美しい山容をしており、その急斜面を登るのは大変だった。頂上は平らだが、目立った防御施設はない。『灘崎町史』には次のように記されている。
現在九十九山と呼ばれている標高一七一・八メートルの山がそれである。天正二年の川張合戦当時常山城兵が出城として利用したと伝えられている。塁か柵程度の陣址と考えられる。
確かに、籠城できるようなスペースはない。見張り台のような役割があったのではないか。天正二年の川張合戦とは何か。このあたりで大きな戦闘があったのは天正三年の常山合戦(毛利VS三村)、同十年の八浜合戦(毛利VS宇喜多)である。山の北麓に古い石塔があるので関連を調べてみよう。
岡山市南区片岡に「腹切地蔵」がある。
このあたりの高台からは広々とした岡山平野を望むことができるが、当時は海が近くまで迫っていた。西から攻め寄せる毛利軍は山の麓を東へ進むこととなる。腹切地蔵について『灘崎町史』は、次のように解説している。
常山城兵が常山合戦当時九十九山に陣取って防いだ(九十九山というのはこの地蔵の南手一九〇メートルの美しい山である)。防戦している時常山城から使者が文を持って来た。この使者が毛利方に見つかり、ついに逃げられなくなって腹を切って自害した。その兵を祀ったのがこの地蔵である。
また一説には、常山合戦当時川張の浜辺を、毛利方の大将三村良成、良兼の三千の兵が攻めよせて来た。これを見て常山方の鉄砲組の大滝三郎兵衛が、川張、迫川に迎えうって常山城に引き上げた。この時の川張合戦の戦死者の名ある者であろうという。
いずれにしろ天正三年の常山合戦の伝承である。川張合戦も同年のことだろう。常山城は一時期備中に覇を唱えた三村氏にとって最後の砦であった。周辺には三村氏の名が伝わる城跡がある。
岡山市南区片岡に「片岡城址」がある。上の写真は主郭に見られる土塁である。
標高は126mでそれほど高いわけではない。九十九山の丸山城との連携が考えられる。下の写真のように北側斜面は数本の竪堀で守りを固めている。片岡集落を守るかように最奥部に位置しているが、児島の内陸へ続く道筋を押さえる役割もあったのだろう。この城の主には面白い言い伝えがある。
城主は三村弥太郎行清、あるいは串田鼻高山城主沖左衛門尉兼忠と伝えられている(一説に源兵衛)。この殿様は貧乏で、麓の片岡村へ向って、「おーい、みそをもって来い」とたびたび大声で呼んでいたと語り伝えている。また家来が城を下りて村の家々へ、食料を集めに回っていたともいう。
こんなので大丈夫なのかと心配になるが、それだけ殿様に親しみを抱いていたのだろう。引用文中の鼻高山城も児島にある眺望が利く城で、片岡城とともに三村勢の持ち城だったのだろう。
岡山市南区彦崎に「彦崎とんきり城址」がある。先ほど登場した鼻高山城と片岡城の中間に位置している。
南北に曲輪を連ねる縄張りはけっこう広い。南の曲輪の南端に土塁を確認できる。切り立ったような山容から「とんきり」と呼ばれるようだ。その名のとおり要害の城であるが、北に延びる尾根だけが緩やかである。秋葉大権現から登るのがよいだろう。城主については『灘崎町史』に次のように記されている。
城主は三村弥太郎行清と伝えられ、一説には児島高徳の居城とも伝えている。築城の年代は明らかでない。
おーい、みそをもって来いの殿様がまた登場した。さすがに児島高徳はないだろうが、英雄の城にふさわしいと思われていたのだろう。『灘崎町史』も「この附近では常山城に次ぐ立派なもの」と称えている。
今回は常山城の西側に点在する史跡を紹介した。いずれも三村氏関連の伝承があるから、その勢力の浸透ぶりがうかがえる。常山合戦で滅亡したことに対する同情もあるかもしれない。毛利氏は合戦に勝利したが、人々の気持ちをつかんだのは三村氏だったようだ。
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