昨今、旧統一教会とつながりのある政治家が次々と明らかになり、政教分離の在り方が議論されている。韓国発祥の宗教団体に政治家がお墨付きを与えたというのが問題視されているのだ。問題は韓国発祥にあるのではなく、信じる者は救われるどころか騙されるという事件が相次いだ過去があるからだ。
蘇我稲目(そがのいなめ)といえば古代豪族の超大物大臣で、韓国から伝わった新宗教を積極的に受容した。これも国論を二分する大論争となり、やがて内戦にまで発展することになる。その蘇我稲目は財政安定のための徴税システムを構築したことでも知られる。フットワークの軽い稲目がやって来たのがここだ。
玉野市田井二丁目に孫座古墳がある。
住宅街の裏山に登ると横穴式石室がある。どこまでが墳丘なのかは判然としない。説明板を読んでみよう。
玉野市指定重要文化財
孫座古墳
昭和三十六年一月二十七日指定
この古墳は六世紀末頃の横穴式石室を持つ後期古墳である。墳丘の径は十二m、横穴式石室は長さ三m幅二・七m高さ一・八m、羨道部は長さ二・七m幅一・五mといった規模であり玉野市を代表する古墳である。
当古墳はこの地方の田部の長か、児島屯倉の役人か定かではないが、いずれにしてもこの地方における豪族の墳墓であったのではないか。
横穴式石室を伴う古墳の副葬品としては一般的に陶器や馬具、その他鉄製品などが葬られているが、すでに盗掘されたのか副葬品はすでに存在しない。しかし、孫座古墳出土と伝えられる遺物を教育委員会生涯学習課で保管している。
平成十七年二月
玉野市教育委員会
玉野市を代表する古墳だそうだ。そこで被葬者を田部(たべ)の長か児島屯倉(こじまのみやけ)の役人かと推定している。児島屯倉については、正史『日本書紀』欽明天皇十七年七月条に次のように記されている。
秋七月甲戌朔己卯、蘇我大臣稲目宿禰等を備前(きびのさき)の児島郡に遣して、屯倉(みやけ)を置かしむ、葛城山田直瑞子(かつらぎのやまだのあたひみづこ)を以て田令(たつかひ)と為す。
なんと蘇我稲目がやってきて、朝廷の直轄地を置いたのだという。児島と言っても実は大きな島だが、屯倉はどこに置かれたのだろうか。『玉野市史』は児島最高峰の金甲山が信仰の山であったことを明らかにし、次のように続けている。
つまりこの山を中心に児島が栄え、山の南と北に多くの天皇の田が存在し、そこからあがる米などを貯蔵するための屯倉がいくつか造られたのであろう。田部の居る所がすなわち田居であり、田部の土地が田居地であったことは推測される。
玉野市内にある田井(一丁目~六丁目)や田井地(西田井地、東田井地)という地名の由来が説明されている。このあたりは金甲山の南に位置する。しかし児島屯倉の役所が置かれたのは、金甲山の北今の岡山市南区郡(こおり)であったろう。このあたりは三宅郷と呼ばれていた。まさに屯倉の遺称地である。したがって孫座古墳の被葬者は、税務署である児島屯倉の役人というより、田部の長つまり農協の組合長だったのではないか。
ところで孫座という地名も珍しい。河井康夫『玉野の地名と由来』には、次のように記されている。
孫座古墳のあるあたりだが、古くから栄えていたらしい。土地の人の話では、一族を広めるためにこの土地に孫を出して住ませたという。一説には三宅郷の米麦の運搬を業とする馬子が集まって住んだので地名になったともいわれる。
孫を出して住ませたというのはなんのこっちゃだから、三宅郷が登場する馬子説のほうがよいだろう。どこまで児島屯倉とのつながりがあるのか、判然とはしないものの、もしかするとこのあたりまで蘇我稲目大臣が視察したかもしれない。ただし、さすがに布教活動まではしなかっただろう。
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