サザンの曲に、遠くに見える「えぼし岩」が登場する。実際に見ると少し傾いた三角形で、確かに引立烏帽子のような形をしている。本日は烏帽子形(えぼしがた)城という城跡を訪ねる。どんな形をしているのだろうか。
山の名は金剛山、標高は385mである。この山容は風折烏帽子に似ている。手前はため池で、氷面に降った雪のため真っ白だ。左手からぐるっと回って、山頂に向かう道がついている。
津山市西上(にしかみ)に「烏帽子形城跡」がある。写真は虎口で主郭は左手の段である。
新野(にいの、当時は新野保)の地を見渡せる好立地の城である。東へ約1kmの地点には、広戸氏の拠点である本丸城がある。
城の大きな特徴は東側斜面に畝状竪堀群があることだ。雪の上からでもウネウネが確認できる。急峻な西側よりも取り付きやすい東側の防御を固めるためなのだろう。
美作郷土史のバイブル『東作誌』には、次のように紹介されている。三巻「勝北郡新野庄西上村」古城の項である。
金剛寺山
城主上野対馬守或云山名忠村居之此城一名烏帽子形と云永禄の頃岡本弾正広家居之と云々
美作の有力武士団、菅家党の一流である広戸氏には、岡本氏を名乗った者もいた。「広戸弾正広家」については矢櫃城、嫡男「新三郎広義」については本丸城の記事で紹介した。烏帽子形城は本丸城の西の守りであったように思える。ただし、広家は天文二年(1533)に尼子軍に敗れ自刃しており、永禄年間は広義の時代だった。
広戸氏のような地方武士は戦国大名による一円支配が確立すると、配下に組み込まれたり帰農したりと、様々な道をたどったようだ。その後裔の人々にとって烏帽子形城は一族の誇りであったろう。私は凛とした冷気を肺の底まで吸い込んで、山道をゆっくり下りたのであった。
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