コウノトリは赤ちゃんを運んでくる幸せの鳥として知られているが、見たことがあるかと言われたら、ない。タンチョウヅルなら後楽園で見た。コウノトリはタンチョウとは似て非なる鳥だという。
豊岡市にはコーちゃんというキャラクターがいて、コウノトリで町おこしをしている。コウノトリ但馬空港があることから豊岡のイメージが強いが、南隣の養父市でもかつては、よく見かける鳥だったという。
養父市大薮の泉光寺境内に「こうのとりの碑」がある。立札の左隣にある石碑である。
これは句碑である。立札には次のように記されている。
こうのとりの碑 弘化三年(一八四六)松翁
相奈禮て三日千寿の別か那(あいなれてみっかちとせのわかれかな)
大島萬兵衛貞利
碑の上部に句が刻まれており、その下にコウノトリの浮彫がある。このような意匠は珍しく、人気の所以である。
寺の近くに「おおやぶ歴史の森案内」(平成21年11月大薮古墳群保存会設置)という説明板があり、この句碑について次のように解説している。
泉光寺の句碑(弘化3年・1846)
泉光寺は臨済宗妙心寺派で、旗本大薮小出家第2代英輝(ふさてる)が建立しました。再建された本堂のほか、江戸時代に建てられた観音堂・山門・庭園があります。境内にはコウノトリを浮き彫りで刻んだ「相なれて、三日千寿の別れか那」という句碑があります。大薮小出家の代官を務めた大島貞利が弘化3年(1846)に作りました。
代官大島貞利は病気のコウノトリを見つけ、三日間介抱したのだが鳥は死んでしまった。世話をしているうちに情が移り、その死をとてもつらく感じたのだろう。
貞利は旗本大薮小出家の代官であった。小出家についての説明は、豊臣秀吉との関係から説くのが分かりやすい。小出家初代の秀政の妻は、秀吉の母大政所の妹なのだ。関ヶ原で秀政や嫡男吉政は西軍についたが、次男秀家が東軍につき活躍したおかげで、一族の罪は不問に付された。
吉政は但馬出石藩の初代藩主となり、その5代目が吉重である。吉重は寛文六年(1666)、3人の弟英本(ふさもと)、英信(ふさのぶ)、英勝(ふさかつ)に分知した。このうち英信の系統が大薮小出家である。知行高は初め二千石、2代目の英輝が弟に分知してからは千五百石であった。
『寛政重修諸家譜』巻第九百二十六によれば、英信-英輝(ふさてる)-英方(ふさかた)-英都(ふさくに)-英邨(ふさむら)と続いている。英邨は将軍家の若君(後の家慶)に祗候するという重要な役割を果たしている。これが寛政年間のことだから、コウノトリの句が詠まれた弘化は、まだまだ先のことだ。
弘化三年の1846年には円山川で洪水が発生し、翌年に大飢饉となっている。数年後に泰平の眠りが砕かれるという激震前夜でもある。不穏な世情にあって、弱ったコウノトリを介抱した大島代官。慈しみという心を形にしたもの、それが代官の句碑であろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。