ルイ14世はわずか4歳で即位し、足利義満は11歳で将軍となった。子どもながらに政治の道を誤らなかったのは、宰相マザランや管領細川頼之のおかげである。いっぽう安徳天皇は1歳で即位したが平家と運命を共にし、1歳か2歳の三法師は秀吉に主客転倒されてしまった。幼君の命運は補佐役にかかっているのだ。
備前市東片上に「富田松山(とだまつやま)城跡」がある。中世の山城だが、公園のように美しく整備されている。地元の方々の並々ならぬ努力がうかがえる。
登城口に説明板があるので予習してから登るとよいが、急坂で喘いでいるうちに全部忘れてしまうだろう。とりあえず記録しておこう。
富田松山城址について
富田松山城は、東片上南岸、海拔二〇九mの頂(いただき)にあって、残礎等ほぼ旧態を追想するに足る。また眺望よく戦国時代に相応しい山城であった。
播州と備前東南部を扼(やく)する浦上氏は、本城を三石に置く関係から備中の雄、松田氏に対して西方面を固める城砦として築いたものであろう。
文明、若くはそれ以前から天正年間に至るまで約百年の間、代々浦上氏の居城であった。
城主の内、浦上近江守國秀から「片上年寄中」宛書状(享禄末?)二通が現存している。
以上
平成元年二月建之
松田氏は西備前の雄である。その西方面の眺望がこれだ。
山頂からは片上の町並み、遠くに同じく浦上氏の香登城も見える。本拠の三石城、この富田松山城、向こうの香登城と、東西を結ぶ要路山陽道を押さえていることが分かる。
防御施設の見どころは、美しい土塁である。浦上氏の兵士らも陽光を浴びながら、ぼんやりと遠くを眺めていたのだろうか。忙中にも閑はあったはずだ。
背後に続く尾根には、岩盤を開削した堀切が設けられている。重機のない時代に、どのようにして山を削り、岩を穿ったのか。
播備国境あたりに版図を広げた浦上氏は、主家赤松氏をしのぐ勢いで室町幕府の内訌に首を突っ込んでいた。しかし、享禄四年(1531)の大物崩れで浦上村宗を失い、遺児虎満丸が家督を相続する。何歳だったか分からないが、幼かったようだ。のちに政宗と名のる子どもである。
虎満丸を補佐したのが一族の浦上国秀であった。国秀は若き当主をよく支えたようだが、やがて政宗は弟宗景と対立し滅ぼされてしまう。その国秀が築いたのが、富田松山城である。山頂の立札には次のように記されている。
築城
天文二年(一五三三)ごろ
城主 浦上国秀
落城
天正五年(一五七七)
城主 浦上景行
落城時の城主、浦上景行については、『備前軍記』巻第四「和気郡天神山落城の事」に次のように記されている。
かくて天神山の城をば焼きはらひ、又宗景の行衛をきくに、片上へ落行き戸田松の城にかくるゝよし聞えければ、城主浦上河内景行へ直家より使を立てゝ、宗景供に後藤数馬を連れて其城に入りたまふと聞えぬ 速に出さるべしとありければ、景行返答に、宗景当城へ御入はなく候といひて、其使を打擲して返しける。直家怒って、直に戸田松の城を攻む。景行下知して防戦すといへども、百にも不足小勢なれば終に攻破られ、浦上河内・後藤数馬等皆播州江島へ落行ける。戸田松の城をも亦焼きすてゝ、直家は岡山へ帰陣ありけり。
天神山城から落ちゆく浦上宗景をかくまい、引き渡すよう求めた宇喜多直家の使者に「ここにはおらんぞ」と告げながら、ボコボコにして返したという。そりゃ、直家も怒るわな。城は焼討されたという。
浦上氏を下剋上で倒した宇喜多直家。その直家が病で亡くなったとき、遺児八郎は9歳だった。幼君を見事に補佐して、備前宰相秀家へと育て上げたのが、直家の異母弟忠家であった。やはり幼君の命運は補佐役にかかっている。
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