明治天皇には男子5人、女子10人、計15人の子ができた。子だくさんに見えるが、成人したのは5名、うち男子は大正天皇ただ一人だった。明治時代でさえこうなのだから、それ以前の乳幼児死亡率は高かったに違いない。
しかし、子の成長を願う親の気持ちは、いつの時代も同じ。どうか無事に成長しますようにと祈ったのが、命を延ばしてくれるという延命地蔵である。さっそくお参りしよう。
岡山市北区建部町西原に「箕地延命地蔵」がある。
昔からの峠には、お地蔵さまがいらっしゃることが多い。これまでも、黒尾峠、人形峠、物見峠、北坂峠で紹介した。今日のお地蔵さまは津山往来の箕地峠を越える人々を見守ってきた。赤いべべがきれいなので、今も篤く信仰されているのだろう。説明板を読んでみよう。
岡山市指定重要文化財
箕地延命地蔵(みのじえんめいじぞう)
平成22年7月27日指定
箕地峠に立っ花崗岩製の延命地蔵である。
高さ1.2m、幅0.5mで、右手に錫杖、左手に宝珠をもって直立する地蔵像が、光背となる石材の正面に浮き彫りで表現されている。
全体として原形を良く残している。現在は十分な判読が難しいが、永山卯三郎氏の『岡山県金石史(続)』によれば、元徳二年(1330)の銘が像の右脇下にあるとされる。年銘をもつ中世石仏は、岡山市内はもとより岡山県下でも数少ない。
地蔵の姿勢、耳の形、錫杖の形、光背の表現などの特徴は年銘と矛盾なく、14世紀の延命地蔵としての典型例であり、その意味で価値は高い。また、旧街道に面する位置に残っていることも重要で、峠における地蔵信仰の一つの実体をよく伝えている。
平成24年3月 岡山市教育委員会
元徳二年の銘があるという。当時は後醍醐天皇挙兵前夜。激動の南北朝時代が始まろうとしていた。旧建部町指定重要文化財としては昭和38年2月26日指定である。町教委が発行した『たけべの文化財』改訂版には、興味深いエピソードが記されている。
またの名を子安地蔵とも呼ばれ、布教の関係で土中に五百年ばかり埋められていたらしい。この地蔵は顔の摩擦が激しく、それは旅で疲れた人々が、仏に訴えてそのご利益に預かりたくて、石を投げつけたためと云われる。
衝撃の内容だ。疲れた旅人なら、ここまで来ることができた喜びに合掌して感謝するのが普通だ。本当に石を投げたのか。投石なら石が欠けることはあっても、摩耗することはないはずだ。
この地は備前と美作を結ぶ交通の要衝である。戦いに向かう軍勢や物資を運ぶ商人がどれほど行き交ったことだろう。そんな昔から往来の盛んなこの峠を、今も人々が汽車で通過している。
JR津山線を快速が岡山に向かう。箕地トンネルを越えたので、ディーゼルをふかすことなく滑るように下っている。線路の左側が津山往来で、その先に箕地峠がある。
峠までは、北からなら車で行けるが南からは昔ながらの往来を歩くしかない。三十年くらい前に南側から峠を目指したが、猛烈な薮に阻まれ断念したことがある。このたび再チャレンジしてみると、藪はきれいに刈り払われていた。中近世の街道と近代の鉄道との両方を楽しめる貴重な空間である。
津山往来には6か所の難所があった。南から半田の大坂、辛香峠、箕地峠、石引峠、小原乢、高清水峠である。これを南北の主要交通路がどのように通過あるいは迂回しているのかをまとめてみよう。
津山往来 JR津山線 国道53号
半田の大坂 旭川 笹ケ瀬
辛香峠 旭川 辛香峠
箕地峠 箕地峠 旭川
石引峠 旭川 旭川
小原乢 小原乢 小原乢
高清水峠 皿川 皿川
如何に起伏のない路線にするか。これが交通の近代化における最大の課題であった。トンネルを掘ったり川沿いの崖を削ったりして、平地と平地を結んだ。川沿いに進む場合には、川の流れに合わせて大きくカーブすることもあった。現代の高速道路では、カーブもなるべく少なく緩やかにしようと、トンネルとトンネルとを高架橋でつないでいる。
岡山と津山を結んで空港津山道路という地域高規格道路が計画されている。両端の都市部には供用区間があるが、その間の中山間地域はルートさえ未定だという。この道路は箕地峠を通過するのかどうか。たとえ通過したとしても気付くことはないだろう。峠を無意識化すること、それが道路建設史の流れなのだから。