墓地の地図記号は墓を横から見た形である。以前の記事で青山霊園の墓についていくつか書いているが、林立する無数の墓碑からお目当ての著名人を探すのは大変だった。地理院地図を見ると墓地の記号も林立している。
青山霊園は美濃郡上藩主の青山家の下屋敷跡に明治新政府が開いたようだが、こうした大霊園は今に始まったことではない。本日は古代の大霊園を訪ねることにしよう。
岡山市北区御津高津に「みそのお遺跡公園」がある。ここには二つの古い墳墓がある。
二つの墳墓は移設されたものである。遺構だけ見ると大したことないように感じるが、この遺跡の意義は別のところにある。説明板を読んでみよう。
みそのお遺跡
みそのお遺跡は、ここから東へ約四〇〇m離れた宇甘(うかい)川をのぞむ尾根上にありました。一九八九~九一年に岡山県古代吉備文化財センターによって発掘調査が行われました。
尾根上には三七〇mにわたって四〇基余の墳墓群が築かれていました。これらは、およそ三世紀の弥生時代後期から四世紀初めの古墳時代初頭に順次築かれたようです。
墳墓は一辺一〇m程度の方形の墳丘に複数埋葬された例が多く見られました。中には、滑石製管玉・ガラス製小玉や、鉄剣・鉄鏃などを副葬したものもありました。ここに葬られていたのは、平地を支配していた首長層とその一族達と思われます。
また、七世紀頃に築かれた古墳のほか、製鉄炉や製炭窯など、鉄づくりの跡も見つかりました。
一九九四年三月 御津町教育委員会みそのお一五号墳墓
この墳墓は、尾根の先端近くの稜線上にありました。墳丘は、一辺約九mの方墳で、周囲に列石があり、箱式石棺が三基見つかりました。いずれにも副葬品はありませんでしたが、墳丘から見つかった高杯形土器の特徴から、弥生時代末~古墳時代初め、およそ三世紀~四世紀初めごろに築かれたものと思われます。
みそのお五〇号古墳
この古墳は、遺跡群の中でも標高一五二mをはかる尾根の高所にありました。墳丘はややいびつな円形で径六mほどでした。内部は全長三mの小型の横穴式石室で、斜面に築かれていたため、もとの天井石は無くなり、入口もこわれていました。石室から見つかった須恵器の特徴から、七世紀中頃に築かれたものと考えられます。
一九九四年三月 御津町教育委員会
15号墳墓は写真上2枚、50号古墳は3枚目である。古代の墓といえば50号古墳のような横穴式石室が有名だが、本日の主役は15号墳墓のような弥生墳墓なのだ。というのも、この遺跡の大半は弥生末から古墳初の築造だからだ。15号は方形の区画でしかも箱式石棺だから特別で、ここでは土壙墓が一般的である。
私はこの遺跡の発掘当時に、現地説明会に参加したことがある。平成2年7月29日のことだ。このたび探してみると、当時の資料が見つかった。
黄色い丸が15号墳墓の位置である。50号古墳はもっと標高の高い所にあるようだ。資料を見ているうちに、この尾根に登って遺跡を見学したときのことを思い出した。私は土壙墓を見学しながら発掘担当者に質問したのだ。
「一面の土なのに、どうして穴があったと分かるんですか。」「土の色が違うんですよ。」
思い出の遺跡は今、工業団地となってしまった。それでも15号と50号の2基が移設保存されたことに感謝せねばなるまい。開発で失われた遺跡は数知れない。みそのお遺跡の意義は何だろうか。現地説明会資料には次のように記されている。
現在までに発見された古墳・土壙墓群などと同様のものは、他地域でも知られていますが、この遺跡のように長さ500mの尾根上に集中する可能性の強いものは、非常に珍しいと思われます。
確かに尾根に集中する墳墓群は、この遺跡以来出会ったことがない。宇甘川沿岸の平地から尾根を仰ぎ見て、地域や一族のアイデンティティを確かめていたのであろう。
ただ、問題は墓参りが大変なことだ。標高が高いことに加えて数が多いし墓標がない。この時代にはお盆もお彼岸もなかったから困らなかったのだろうか。いずれにしても先祖あっての私の存在。感謝の気持ちは千数百年の昔と変わらない。
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