文久の改革は三大改革以上に特筆すべき改革である。幕府による大名統制の根幹をなす参勤交代が改められたのだ。隔年交代制は3年に一度、江戸在留期間は100日となった。地方分権が進められたのである。時に文久二年(1862)、様々な可能性を秘めながら、時代は変化しようとしていた。
津山市北町に「宇田川興斎旧宅跡」がある。どのような区画の住居だったのか想像もできないが、津山城を望む高級住宅街だったことは確かだ。
津山藩の誇る洋学者、宇田川家三代とは宇田川玄随、玄真、榕菴である。榕菴珈琲で知られる榕菴を継いだのが興斎であった。どのような事績があるのか、説明板を読んでみよう。
宇田川興斎旧宅跡
天保十四年(一八四三)津山藩医(江戸詰)宇田川榕菴の養子となった興斎は、のち幕府天文台に出仕し、幕府の開国・開港の騒然とした時代にあって、同藩医の箕作阮甫・秋坪らとともに国事に奔走した。また同時に『英吉利文典(イギリスぶんてん)』『万宝新書(ばんぽうしんしょ)』『地震預防説(じしんよぼうせつ)』を著わすなどその活躍は広範であった。
そのころ参勤交代の制も緩和され、藩主の国元滞在が続いたこともあって、文久三年(一八六五)、興斎に対して津山への転居が命ぜられた。そこで家族を連れて移り住んだのが、この屋敷である。
やがて維新となり、明治五年(一八七二)興斎は再び東京へ移ることになるが、その間、長州征伐への従軍や、一時は江戸詰を命ぜられるなど、多忙な時期を過ごした。
市内西寺町の泰安寺には、興斎が津山で娶り早世した後妻阿梶(おかじ)とその子撤四郎の墓碑が、宇田川三代(玄随・玄真・榕菴)の墓碑とともに祀られている。
津山市教育委員会
「文久三年(一八六五)」は1863年の誤りである。この年に興斎の津山暮らしが始まったのは、藩主の国元滞在が長くなったためだ。津山で家族に恵まれたが、妻子を相次いで亡くすという不幸もあった。妻子の墓は津山にあるが、自身の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にある。
興斎の事績は、その著作を説明するのが適当だろう。安政四年(1857)刊行の『英吉利文典(イギリスぶんてん)』は英語の文法書である。今では小学生でも話すという英語を、当時は誰も知らなかった。1853年にオランダのアムステルダムで刊行された英語の教科書を原文のまま翻刻したものだという。興斎はオランダ語で英語を学んだのである。
万延元年(1860)出版の『万宝新書(ばんぽうしんしょ)』は生活百科事典のようなものらしい。佐村八郎『国書解題』によれば「酒の醸法、食品の貯方以下凡て二百七十余項あり」とのことだ。
安政三年(1856)出版の『地震預防説(じしんよぼうせつ)』は地震についての科学的解説本である。前年の安政大地震による世情不安を解消するため、幕命によりNederlandse Magazeijn,1844という蘭書を抄訳したものである。地震は地中の電気現象であり、避雷針で電気を地上に逃がせば地震は起きない。この説に基づき興斎は、江戸の町の周囲に深い穴をめぐらせれば地震を予防できるとした。
これを荒唐無稽と笑うのは簡単だが、当時、あの恐ろしい災害を科学的に解明しようとした人がどれほどいただろうか。正しい知識で正しく恐れる。民心を安定させるために幕府も洋学者も必死だった。濃尾地震(1891)で地震断層説が注目されるかなり前のことである。
科学とは説明である。説明できるから科学なのだ。米英船が来航するようになった。江戸を大地震が襲った。時代の変化にすぐさま対応して、求められている情報を提供する。オランダ語の出来る興斎であればこその社会貢献だったと言えよう。
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