昨年12月にアメリカ政府は首都ワシントンでアメリカ・アフリカ首脳会議を開催し、アフリカで影響力を強める中国やロシアに対抗する姿勢を示した。アフリカの中でも有力な南アフリカ共和国は中国を最大の貿易相手国としているし、隣のナミビアはロシア非難決議に棄権を繰り返してロシアから感謝されている。
我々日本から見ると正義はアメリカにあるように思えるが、民主主義的な価値観が全世界に通用するわけではない。平和で安定した豊かな暮らしを目指すアフリカ諸国にとっては、経済的な支援をしてくれる国が最大の友好国である。中小諸国は大国との関係に気を使い、大国は中小諸国からの支持を得たいと思っている。
それは戦国時代の我が国でも同じであった。本日は但馬の国衆の争いを見ることにしよう。
豊岡市日撫(ひなど)と山本にある愛宕山に「鶴城跡」があり、市の史跡に指定されている。神武山の亀城(豊岡城のこと)と対のように呼ばれている。
大規模な山城で見応えが十分ある。写真の一、二枚目は主郭の土塁である。三枚目は主郭から南方向にある水の手で、窪地と石垣が確認できる。説明板の詳細な縄張図を見ると、その名のとおり鶴が翼を広げたような曲輪の配置がよく分かる。説明文を読んでみよう。
豊岡市指定文化財
史跡 鶴城跡
〈城史〉
鶴城は南北朝期から戦国期にかけて円山川下流域に勢力を振い、「山名四天王」のひとりに数えられた国人・田結庄(たいのしょう)氏の居城である。伝承では、永享年間(1429~1441)の但馬守護山名宗全による築城であるという。天正3年(1575)10月におこった野田合戦で垣屋豊継らに攻められ城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後天正8年(1580)まで豊継の支配するところとなった。
〈縄張〉
鶴の後尾部にあたる主郭Ⅰの背後を2段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南方向には大きい曲輪(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)を配している。愛宕神社南側の尾根には小曲輪を多用し、曲輪Ⅵのあたりは土塁と竪堀で防御している。特徴的なのは、主郭Ⅰの北側と東側斜面には戦国期特有の畝状竪堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。城域は、南北660m東西460mを図る大規模なもので、国人・田結庄氏にふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭である。
〈愛宕神社・宝城寺跡〉
元和5年(1619)年、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。明治以降、宝城寺は廃され、代って愛宕神社が置かれた。
平成7年3月 豊岡市教育委員会
山名氏には山名四天王、すなわち垣屋氏、田結庄氏、八木氏、太田垣氏という有力家臣がいた。初めは織田氏に従った山名氏家中だったが、元亀年間から毛利氏の影響力が及ぶようになると二派に割れていく。垣屋氏、八木氏、太田垣氏、そして当主の山名祐豊は毛利方についたが、田結庄氏は織田方から離れなかった。
このような状況下で、田結庄是義は元亀元年(1570)に垣屋続成(つぐなり)を滅ぼしたが、天正三年(1575)に垣屋豊続(とよつぐ)に滅ぼされる。豊続は天正八年(1580)の秀吉勢の但馬平定まで毛利方として頑張り、その後は秀吉の鳥取城攻めに協力した。領地は但馬国内に安堵されたらしい。
国人たちは生き残りをかけて戦国大名と手を結んだ。選択を誤れば一族滅亡の可能性さえあった。田結庄是義が織田方についたのは結果的に時期尚早であり、垣屋続成系統の光成は秀吉に敗れるとその配下となって活躍し、因幡国内に知行地が与えられたが、子の恒総が関ヶ原で西軍を選択して滅んでしまった。
我が日本もアフリカへの影響力を強めようと、TICAD(ティカッド、アフリカ開発会議)を主催している。昨年8月には第8回会合をチュニジアで開催した。アフリカ諸国は安倍元首相への弔意を表明するとともに、我が国からの支援強化に期待を寄せた。だが、アメリカにも中国にもロシアにも同じ事を言いつつ、大国の覇権争いの行く末を冷静に見つめているに違いない。
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