墨田区を流れるのは隅田川で、京都の鴨川の上流は賀茂川である。多摩川から取水するのは玉川上水で、奈義町には雄大な那岐山がある。このブログには春日部市粕壁からのレポートもある。
同じ場所で同じ読みながら、異なる表記をするというケースはけっこうあるようだ。地名の読みは表記に先立つ。最初に読みがあり、その音に漢字が当てられるのだが、本来の意味とは異なる漢字が当てられることもあった。
本日は「日差(ひさし)山」に登るのだが、東向きで朝日が差すからそう書くのだろう。ところが、近世の軍記物では「廂(ひさし)山」として登場する。なんでそんな当て字を、と思って山を見れば、屋根のような台形をしている。やはり廂が正解なのだろうか。
倉敷市矢部と岡山市北区新庄下、総社市宿の境に「鷹ノ巣城跡」がある。大きな堀切は石垣で補強されている。
ここは北東方向の眺望に優れ、最上稲荷の大鳥居を目印に高松地区を俯瞰することができる。戦国史上最大のドラマはここで目撃されたのだ。
『都窪郡誌』第十四章旧蹟勝地「鷹巣城址」の項には、次のように記されている。
鷹巣城址
鷹巣城址は庄村大字山地日差山の毘沙門天堂宇より西北に上ること約七町、加茂・庄・山手三村の境にあり。標高二百米。(六百六十尺)面積約千二百坪。松樹繁茂し、東北西の三面は断崖絶壁にして、南方処々に石垣の存するあり。一条の道を通す。城址東西十五間南北二十間。天正十年夏、毛利氏の将小早川隆景の陣したる所とす。
安西軍策云、天正十年五月、元春朝臣隆景朝臣一手に成給、都合其勢三万余騎岩崎の廂山へ打出陣を被居有無の一戦を被定ける所に、秀吉より俄に安国寺を被呼、北は伯耆半国を境にし、南は備中兄部(カウベ)川を限て、可有分国。此儀互に誓詞取かはす可し。此旨元春隆景へ懇に可被申ありければ和平相調ひ、秀吉は六月六日に退軍す。
ここから小早川隆景が一大決戦の戦況を見守っていたのだという。城のある山を江田山と呼び、その最高所227mは堀切を隔てた南側にある。日差山は江田山から東へ伸びる尾根を指す。緩斜面の先端には巨大な岩が林立し、毘沙門天を祀る日差寺がある。
岡山市北区矢部と山地の境に「日差山城」がある。山道の北側にあるので通り過ぎてしまいそうになるが、標高200mの高まりをよく観察すると、石列や方形の土塁を確認できる。
日差山は山岳仏教の聖地として栄えたというから、遺構は必ずしも山城関連とは限らない。それでも眺望が確保できるという点から、砦に相応しい場所と考えてよいだろう。
倉敷市矢部と岡山市北区山地の境の仕手倉山頂部に「練尾氏城跡」があるそうだ。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書(備中編)』に場所と名称が示されているのみで、詳細は分からない。日差山山塊の頂部の一つであり、三等三角点「山地」223.7mがある。最重要な鷹巣(たかのす)城の背後を、日差山城とともに守っていたのであろう。
比較的平坦で見晴らしの好い頂部を急斜面が防御している。古代山城はそのような場所に築かれ、山城としての機能を終えると山岳仏教が栄えた。日差山には天平勝宝六年(754年)に報恩大師が霊場を開いたという。山岳仏教の聖地が中世山城に転用されたということになろうか。今ではトレッキングコースとなり、身心リフレッシュの聖地となっている。