石高1万石以上は大名と呼ばれ、独立した藩主としての格式を誇ることができる。1万石ぎりぎりでも頑張ったことで良かったのは、明治になって華族となり爵位を与えられたことだ。
ところが、1万石以上の領知を有するのに、なかなか華族として認められなかった武士がいる。大藩の陪臣、つまり大名の家臣である。本日は岡山藩主池田家の家臣日置家、加賀藩主前田家の家臣である今枝家の両家のつながりを紹介しよう。
岡山市北区御津金川に「金川東塔地蔵尊」がある。見事なレリーフで表現されたお地蔵さまの正面に「慶授院保室妙祐大姉」という戒名が刻まれている。
宝永三年(1706)に日置氏金川四代目の忠昌が、初代忠俊母の百回忌を供養したものである。日置氏は以前の記事「終生忘られぬ感激の地」で紹介したように、一万六千石の大身であった。
忠俊母は今枝忠光の女(むすめ)であった。では、今枝忠光とはどのような人物なのだろうか。『御津町史』では、次のように説明されている。
忠俊の母は今枝光忠(ママ)の女であって、光忠は美濃国に生まれ、戦国時代には斎藤道三秀竜に仕えて軍功あり、二代内記重直は信長、秀吉、秀次と仕え、のち前田利長に仕えて一万二五〇〇石を賜り家老職を務めている。今枝氏と日置氏とは、幕末まで幾度も縁組が重ねられている。-加賀国においては家臣が他国の者と婚姻することを固く禁止して、日置氏のみが許されていたといわれている。
加賀藩家臣団は年寄中である加賀八家が最高家格を誇り、これに次ぐのが人持組で、一万四千石の今枝家を筆頭としていた。今枝家出身の母に生まれた日置忠俊は、跡継ぎとする養子を今枝家から迎えた。「終生忘られぬ感激の地」で紹介した金川二代目の忠治である。
二代目の他に十一代目の忠弼、八代目の忠辰の正室も今枝家出身である。いっぽう今枝家(※ここでは初代を忠光の子重直とする)も二代目直恒、四代目直方、五代目恒明は日置家出身である。江戸時代を通じて両家には深いつながりがあった。
明治の代となり華族制度ができたものの、もと大名クラスの両家はしばらく士族のままだった。男爵の栄誉が与えられたのは、今枝家が明治33年、日置家が同39年になってである。
ただ、栄誉が与えられたとしても、それが何になるというのか。敗戦による大改革を経ずとも、華族制度は長続きしなかったはずだ。イエの関係を主軸とする封建社会の残り火だからである。
日置今枝両家が戦国時代の絆を長きにわたって保ち続けることができたのも、封建社会であればこそであった。美しいお地蔵さまは、単に個人を供養しているのではない。両家の絆を象徴するために造立されたのであろう。
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