赤穂藩は刃傷事件ばかりが注目されて、なかなか実像がつかめない。浅野家に続いて永井家、森家が藩主を務め、特に森家は12代165年にわたって統治した。これに対して浅野家は3代56年。
短くとも城下町赤穂の基礎を築いた浅野家を顕彰する特別展「浅野家とその時代」が、令和3年から翌年かけて赤穂市立歴史博物館で開催された。令和4年は初代藩主浅野長直没後350年に当たっていた。展覧会を楽しんだ私は、浅野氏の居城赤穂城の本丸へと向かった。
赤穂市上仮屋に赤穂城の「清水門跡」がある。
向こうに見えるのは米蔵を模した市立歴史博物館である。門とはいえ広々としているので、重要な境界と気付かないだろう。説明板には次のように記されている。
赤穂城 清水門跡
清水門は、赤穂城三之丸の東に開かれた門で、川口門とも呼ばれ、幅二間二歩、奥行七尺七寸、建坪四坪の規模であった。
門を出ると板橋があり、付近には熊見川(千種川本流の古称)沿いに蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。また、門の南の石塁と二之丸東北隅櫓との間の二之丸堀には、敵兵の侵入を防ぐために六間一尺五寸の柵も設けられていた。
なおこの門は、元禄十四年(一七〇一)四月十九日に幕府に城を明け渡した後、大石内蔵助が名残を惜しみつつ退去したことで知られている。
赤穂義士会
大石内蔵助は今私が来たのとは逆方向に出て行き、再び帰ることはなかった。幕府から城請取りを命ぜられたのは、龍野藩主脇坂安照と足守藩主木下公定であった。脇坂勢は大手の追手門、木下勢は搦手の塩屋門から入城した。これに対して赤穂藩士は大手でも搦手でもなく、鬼門に当たる清水門から退去するよう指示されていたのである。
清水門から続く道の周囲は三之丸。突き当りを右に折れると重要な建造物があった。
大きな長屋門の入口に「史蹟大石良雄宅阯」と刻まれた古い標柱がある。「大石良雄宅跡」として大正12年に国の史跡に指定された。
屋敷は享保十四年(1729)に火災に遭ったが、長屋門だけは焼失を免れたという。説明板を読んでみよう。
大石邸長屋門
この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・八メートル奥行約四・八メートルの建物で、屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。
赤穂義士会
元禄十四年(1701)、18世紀になったばかりなのに、それは青天の霹靂であったろう。3月14日、赤穂藩主浅野内匠頭が刃傷事件を起こし、即日切腹を仰せつかったのである。この一大事を国元に知らせるため、早水藤左衛門と萱野三平の早駕籠が午後5時前に赤穂へ向けて江戸を発った。得ている情報は刃傷事件の発生と田村右京大夫様へのお預けである。
続いて浅野大学からの足軽飛脚、さらに殿様御生害の知らせを受け、原惣左衛門と大石瀬左衛門の早駕籠が江戸を発った。到着は早水萱野組が19日午前6時ころ、続いて足軽飛脚、原大石組はその日の夜であった。多くの人の運命を変えることとなる凶報は、この門に飛び込んできたのである。
本丸を目指して二之丸に入ろう。
本丸に向かって右手に「大石頼母助屋敷門」がある。門の内側に「山鹿素行謫居地跡」の標柱が見える。
大石内蔵助なら知っているが、頼母助とは誰だろうか。説明板を読んでみよう。
大石頼母助(たのものすけ)屋敷門
構造形式 薬医門(一間一戸潜門付)
木造 切妻造 本瓦葺
主要寸法 桁行三・一八m 梁間一・九一m
軒高二・八八m 棟高四・五五m
大石頼母助良重(よししげ)は、大石内蔵助良雄(よしたか)の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。藩主浅野長直に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごしたという。平成十~十三年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成二十一年三月に整備された。
赤穂市・赤穂市教育委員会
大石良重は、内蔵助の祖父で養父(実父は早世)の良欽(よしたか)の弟に当たる。殿様長直公のずいぶんお気に入りだったようで、兄とは別に家老となり、殿様の娘を妻に迎え、子どもは長直公の養子となって旗本若狭野浅野氏を興した。
朱子学批判により赤穂配流となった軍学者山鹿素行が、寛文六年(1666)から約9年間謫居として過ごしたのは、大石良重の屋敷であった。「夫れ中国の水土は万邦に卓爾(たくじ)し、人物は八紘に精秀たり。」と、中国人もびっくりの日本賛辞を記した『中朝事実』は、この屋敷で書かれたのだろうか。
本丸の入口に「本丸門」がある。
美しい。実に美しい。城郭復元のお手本のような出来栄えである。説明板を読んでみよう。
国史跡赤穂城跡本丸門(復元)
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していました。
現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による桝形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。
桝形石垣 虎口左前(門桝式)形式 使用石量1,873t
面積334.32m2 高さ4.60m
一の門 木造脇戸付櫓門 入母屋造 本瓦葺
上階・下階構造 棟高10.98m
使用材(欅・桧・杉・松) 材積75.03m3 瓦数9,820枚
上階 桁行13.36m 梁間4.77m 軒高7.70m
下階 桁行8.83m 梁間4.14m 軒高4.78m
二の門 木造小戸付高麗門 切妻造 本瓦葺
桁行3.89m 梁間2.49m 軒高4.62m 棟高6.13m
使用材(欅・桧・杉)材積10.97m3 瓦数2,270枚
土塀 桁行 1.80m 梁間 2.41m 長さ92.67m
中道 幅9.73m 長さ18.82m
平成8年11月 赤穂市教育委員会
古写真が完コピされている。向こう側に見える本丸櫓門の内部公開がちょうど行われていた。名古屋城の大天守復元もいいが、このような門構えの復元も入城する高揚感を高めてくれる。赤穂城の天守はというと、復元不可能。存在しなかったからだ。
赤穂城内を散策しながら思うのはやはり浅野内匠頭のこと。明智光秀と並んで動機不明の大事件を起こした。分からないからストーリーを仕立てて理解しようとする。
光秀が家康の饗応役を務め、日本一の淀鯉を運ばせた時のこと。家康やその家臣、信長までもが臭いを気にし始める。「臭うはずがありませぬ。徳川殿は、高貴な料理になじみがないのでございましょう。」次の瞬間。信長が激怒し、光秀を折檻するのである。NHK大河『どうする家康』は、恥をかかされた恨みが原因と描く。
勅使饗応役を仰せ付かっている浅野内匠頭が、指南役の吉良上野介に対応を冷笑され、「鮒だ、鮒だ、鮒侍だ」と罵詈雑言を浴びせられたなら、そりゃブチ切れるわな。誇りを傷つけられれば、必ず恨みへつながる。分かりやすいストーリーだ。
饗応役という大切な場面で恥辱を与えられる。それは堪え難い仕打ちであったろう。たった一人の感情が歴史を動かしている。そんなことがあるのだろうかと思いながらも、そうかもしれないとつぶやく。赤穂城を散策しながら思ったのは、申し訳ないが森家十二代ではなく、やはり浅野家三代であった。
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