今年は大永三年(1523)に、毛利元就が郡山城に入城して500年、長男隆元が生まれて500年というメモリアルイヤーである。近代国家への移行を長州藩が主導したことを思えば、藩祖元就が権力を掌握するとともに世継ぎに恵まれた事に、我が国の起点の一つがあると見てよいだろう。
一昨年は元就没後450年であり、これを記念して安芸高田市歴史民俗博物館で『毛利元就-「名将」の横顔-』という特別展が開催された。波瀾万丈の生涯を貴重な資料とともに丁寧に紹介した秀逸な展覧会であった。
これまで博物館には何度も来たが、郡山城に登ったことがなかった。展覧会で気分が高揚した勢いで私は、元就と隆元を偲ぶため郡山に足を踏み入れたのである。
安芸高田市吉田町吉田に国指定史跡「郡山城跡」の「本城」がある。文化財としては「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」と一括して指定されている。
郡山城がいつ築かれたのか定かではないが、この場所がもともとの城であった。なぜ山頂ではないのかは、説明板を読むとよく分かる。
本城 標高292m、比高90m
郡山東南の支尾根上、吉田保育所の裏手にあり、南北両側ともに非常に急峻である。東側に流れる可愛川に突き出しており、本城は物流の要である可愛川を抑えることを意識した立地であったといえる。
最高所(通称本丸)を中心に300mにわたり東方向に郭が伸びており、城域の両端には堀切が残る。更に東の尾根先端部には細長い平坦地が多数残り、ここも城域であった可能性がある。
築城時期は不明だが、史料から16世紀中頃には毛利氏の山城(初期の郡山城)として存在したと考えられる。16世紀中頃、ここに居住していた毛利元就は長男の隆元に家督を譲った。その後元就は、郡山の山頂(「かさ」)に移り、当主となった隆元がこの本城に住んだ。史料上では、ここに「二重・中・固屋」という空間があったことがわかる(毛利家文書七五〇)。後に隆元は、元就の住む山頂との利便性を重視して尾崎丸へ移ったと考えられている。
令和三年三月 安芸高田市教育委員会
元就入城500年を記念して、入城時のあらましを紹介しておこう。大永三年(1523)当時、毛利家の当主は幸松丸9歳で、叔父の元就が後見役だった。幸松丸は鏡山城攻略から凱旋したものの俄かに亡くなってしまう。このことについては記事「生首が動いて戦慄驚動」を参照されたい。
後継は元就にとの考えが多かったが、元就の異母弟相合(あいおう)元綱を推す老臣もいたため、多数派は連署状を作成して元就に忠誠を誓った。これが「福原広俊外十四名連署状」で、冒頭で触れた特別展で複製(毛利家文書二四八)が展示されていた。
連署状の筆頭は福原広俊、主導したのは志道(しじ)広良、15名のうち5名は井上氏であった。近世になってから福原氏は永代家老、志道氏は寄組(よりぐみ)として藩を支えた。井上氏は天文十九年(1550)に元就に粛清されることになる。
元就の郡山入城は8月10日、現在の暦では9月10日のことであった。家督を相続するに当たり、元就は次のような発句を残している。毛利家文書二五〇で、これも複製(毛利家文書二五〇)が展示されていた。
毛利乃家わし乃はを次脇柱
脇柱は間もなく大黒柱となって、毛利乃家を大きく発展させることになる。しかも、この年4月には多治比猿掛城で長子隆元が誕生していた。好条件あってこその発展である。その後、隆元は無事に成長し、天文十五年(1546)に元就から家督を譲られた。この時、説明板にあるように元就は山頂に移り、本城には隆元が入った。
本城から尾根伝いに山を登れば「尾崎丸」と呼ばれる曲輪がある。
さらに登っていけば、元就のいる山頂(本丸)にたどりつく。本城から本丸までは確かに遠く、高低差が身体に堪える。隆元が父親から「ちょっと来いや」と呼ばれても、内心「勘弁してよ」と思ったのではないか。
尾崎丸は本城と本丸の中間点に位置する。これなら何とかなりそうだ。説明板を読んでみよう。
尾崎丸跡
尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用した三条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。
中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。
なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。
平成四年三月 吉田町教育委員会
さすがに近世大名一家の御殿暮らしとは趣がまったく異なる。御殿暮らしがライフスタイルになった現代人は山暮らしにあこがれるが、毛利さん一家はいつでも臨戦態勢に移行できるようここで生活しているのである。
さすがに山頂の「本丸」は広い。櫓台らしき最高所には「御本丸跡」という石柱が立つ。
展覧会を思い出しながら森の中をゆっくり巡れば、元就の業績の大きさがしみじみと伝わってくる。五百年後の人の心を動かしているのだ。説明板を読んでみよう。
郡山城本丸跡
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。その北端は一段高くなった櫓台がある。櫓台は長さ2m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。この地点が一番高く、標高三八九・七m、比高約二〇〇mになる。
城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
曲輪も大小合わせて二七〇段以上みられる。
大永三年(一五二三)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に城郭を拡大していった。元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。
平成三年三月 吉田町教育委員会
確かに、このように巨大な山城はめったにお目にかかれない。中国の覇者に相応しい構えである。当主である隆元は隠居の父親に先立って、永禄六年(1563)に亡くなってしまう。尼子氏と交戦中のことであった。
家督は孫の輝元が継ぎ、元就が後見役となり毛利両川が実働部隊として支えた。尼子氏を降伏(永禄九年)に追い込み、旧臣の反乱も鎮圧した元亀二年(1571)、巨星元就が郡山城で没する。その後の本丸には輝元が入ったのだろうか。
天正十九年(1591)には近世城郭広島城築城に伴い、輝元は広島へと移った。戦いのない時代には険しい山城は無用である。菩提寺洞春寺も広島、さらには萩、山口へと移転したが、元就の墓だけは郡山城内に残された。
郡山城は元就の城であり、元就の魂そのものであった。切り分けることなどできなかったのだろう。元就入城から500年の機会に、中国地方に平和を構築した毛利氏の偉業を顕彰するとともに、近代国家への移行を促した長州藩の功績も称えたいと思う。ただし、Power is justice.であったことは間違いない。
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