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土砂崩れなどの災害が発生した場合、要因として過去の地形改変が指摘されることがある。一昨年の熱海の土石流もそうだった。近年は「持続可能な開発」がキーワードだが、安全こそ持続すべきものであろう。
時に問題視される地形改変だが、山城探訪においては、これが魅力の一つである。深い堀切、うねうねした畝状竪堀群、広く平坦な主郭、矢を防ぐ土塁、連続する堀切。さっそく行ってみよう。
福山市芦田町福田に「利鎌山(とがまやま)城跡」がある。
芦品平野に睨みを利かす位置にあり、技巧的で見応えのある山城である。いったい誰が築いたのか。説明板を読んでみよう。
利鎌山城跡 ≪標高二〇六m≫
(市原城・別素城)
一一九六年、源頼朝から芦田川川南六郷の地頭職を任じられた藤原(後に福田と改姓)遠江守光雅が築城。六代城主光季のとき、足利尊氏が九州から京へ東上の途中、尊氏の弟直義に攻撃され、一四〇年続いた福田氏は滅亡し、利鎌山城は空城となる。
一三五六年、岡田遠江守盛次が、足利尊氏から福田庄を拝領し、利鎌山城に入城。二〇〇余年後の八代城主岡田遠江守盛雅のとき、有地美作守隆信の軍勢に城を襲撃され、盛雅一族は滅亡する。
この城跡は、福山市の中世山城では最大級のもので、畝状竪堀群・堀切・土塁跡等、貴重な遺構が残っている。
(『福田のさと』より引用)
二〇一〇年(平成二十二年)十一月
福山あしな商工会 青年部
藤原姓の福田氏が足利直義によって滅ぼされ、1356年に岡田氏が入城、遠江守盛雅の時、有地氏に滅ぼされたという。これに対して『日本城郭体系13広島・岡山』では、次のように解説されている。
利鎌山城は神辺平野南の丘陵地帯に広がる福田の谷中に位置する山城で、南北朝期以降福田の領主福田氏の居城として使用されたが、弘治元年(一五五五)西隣の有地氏に攻められて福田氏は滅亡し、城は廃城となった。
城の由来は、建武年間(一三三四-三六)の湊川の戦で福田盛次・信次の兄弟は、足利尊氏のもとで武勲をあげたことから、延文元年に備後の福田・永谷・今岡・戸手・有地・柞磨などを与えられ、福田村市原に城を築いて移り住んだのが最初とされる。
以後、二代信久・三代盛雅・四代盛長・五代盛国と続くが、六代久重の時には、西隣の有地で毛利氏麾下として勢力を拡大していた有地隆信としばしば争うこととなり、弘治元年には、隆信は約三百五十騎で攻撃した。これに対して久重は二百騎で応戦し、久重の妻の奮戦などもあったが、ついに城は落ち、久重も死んで福田氏は滅亡し、城は廃城となった。
一三五六年と延文元年は一致しているが、岡田盛次に福田盛次と氏が異なる。戦った相手は有地隆信で一致しているが、利鎌山城主は八代岡田盛雅に六代福田久重と、別人に思えるくらいだ。
そもそも戦国期に利鎌山城主だったのは、岡田氏なのか福田氏なのか。調べると、紀元二千六百年記念として発行された内外通信社『躍進岡山県・広島県・山口県・島根県・鳥取県総覧』名鑑のうち、芦品郡福相村の元村長岡田利多治の項に次のように記されている。
岡田家は福田の城主福田遠江守の後裔たる名門の家柄にして、今より六百年前或る戦に敗れし為、帰農して現在に至ったものである。
岡田氏と福田氏は一体的に捉えてよさそうだ。ならば、滅ぼされたのは盛雅なのか久重なのか。備後叢書第四巻所収『備後古城記』の蘆田郡福田村の項には、次のように記されている。
利鎌山城 福田遠江守藤原盛雅(戸カマ山とも)
福田盛雅という人物が、利鎌山城主の代表格なのだろう。この武将は、本ブログの記事「医王山城は不落を祝う山城」に登場している。盛雅が派遣された医王山城攻防戦が天正八年(1580)だから、弘治元年に福田氏が滅亡し利鎌山城が廃城となったことと矛盾する。城の技巧的な地形改変から考えると、弘治元年廃城説は誤りであろう。
問題は有地氏との攻防戦があったかどうかである。有無の証明はできないが、利鎌山城の防御施設の充実は、近隣勢力と緊張関係にあったことを示唆していると考えてよいだろう。地形改変が歴史を語っているのである。
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