源平藤橘は四姓といい、古代以来の代表的な姓として知られる。だが、菅原姓も忘れてはならない。加賀百万石の前田氏は本姓菅原を自称したし、藤原系が圧倒的に強い公家社会でも菅原系は頑張っていた。地方武士団にも菅原氏の後裔を称する者がいた。美作菅家党である。
美作市粟井中(あわいなか)に「淡相(あわい)城址」がある。作東町時代には史跡に指定されていたようだ。
大規模な横堀は一見の価値があり、この城一番の特徴と言えよう。緩斜面の西側防御を、横堀で補強しているのだ。
主郭南端の土塁を見ていると安心感すら覚える。しかもその向こうには、深い堀切がある。
防御性の高いこの山城には、どのような歴史があるのだろうか。吉川弘文館による最高峰の歴史大百科『国史大辞典』(旧版)には、次のように記されている。
アハヒジヤウ 淡相城
所在
美作国吉野郡粟井庄中村
沿革
菅家の一族粟井近江守景盛在城す、応仁の乱後山名赤松不和なり、時に景盛山名猪臥入道に属し、文明十二年六月、赤松の部将小房の城主新免長重を討て之を滅す、其子備前守休盛、其子近江介晴盛等あり、後ち山名氏衰微し当城亦衰ふ、元亀天正の頃粟井三郎兵衛といふもの宇喜多直家、同秀家に仕へたりしが、秀家敗るゝに及び、本国に帰り仕官の途を絶ち一生を終る、一説に、粟井家は菅公二十代の後胤羽賀美濃守祐房の子、塀和美作守助盛、山名伯耆守義氏に順て、粟井の城主となり、其子淡相筑後守貞盛粟井と改め、貞盛の子景盛に伝ふと云ふ(美作古城記)
城主の粟井氏は、もと美作国久米郡垪和郷の豪族、垪和(はが)氏。山名氏のもとで粟井景盛が赤松方に対抗したが、やがて山名氏は衰え、粟井氏は宇喜多氏に仕えた。大規模で精巧な造りの城は、宇喜多氏時代に整備されたものだろう。
源平藤橘。圧倒的に栄えたのは源氏と藤原氏であったが、選に漏れた菅原氏もけっこう頑張っている。淡相城を見るがよい。この横堀、この土塁、この堀切。どれをとっても第一級の防御施設である。実力がそのまま城造りに現れている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。