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親不知子不知は北陸道最大の難所である。断崖絶壁と打ち寄せる波に旅人は、親子といえども我が身を守るのが精一杯だったという。子不知東端の落水(おちりみず)には、犠牲者を弔うため万霊供養塔が建てられた。昔の旅は命懸けであった。本日は少し似た話の伝わる旅の難所を紹介しよう。
岡山市南区妹尾に「跡不見(あとみず)観音寺」がある。
後ろを振り返ることができないほどの難所だったというのだが、自転車のペダルを心地よく踏むうちに来ることができた。どこが難所なのか。ヒントはすぐに見つかった。
観音寺のある場所は島のような丘になっており、周囲が低い。特に東側には大きな遊水池があり、商業施設が並ぶ県道沿いとは全く異なる低湿地である。岡山歴史のまちしるべには、次のように記されている。
昔、吉備地方が「吉備の穴海」の状態だったとき、この地は潮流が速く、船頭がよそ見をすると遭難しかねない「跡不見の瀬戸」と呼ばれる危険な場所でした。遭難しかかった船が観音様のおかげで難を逃れることができたという逸話から観音堂が祀られ、その後、平安時代にこの地を治めた妹尾太郎兼康が御堂を再建して観音寺としたとの縁起があります。
御尊体「洗水観世音菩薩(あらいみずかんぜおんぼさつ)」は、「水で洗い清められた観音様」という意味で、拝む人も、水で洗ったような清らかな精神で観音様を拝むと救われる、とされています。境内には稲荷宮もあることから五穀豊穣、商売繁盛などの祈願と合わせて、現在も参拝者が絶えることはありません。
「後を見る暇(いとま)もない」地に祀られた観音様というこの観音寺は、妹尾の古い地形環境を彷彿とさせる貴重な歴史遺産です。
(看板提案:妹尾・箕島を語る会)岡山市
現地で地形を確認すると、低湿地の水は観音寺の前から南西へと続き、妹尾川に合流していたように思える。現在の山々が島だった「吉備の穴海」の時代、海峡はずいぶん狭く、潮の流れは速かったことだろう。
わざわざここを通らなくても、もっと南に漕ぎ出せば穏やかな船旅ができたであろうに。そうは思うが、危険を冒しても通過する理由があったのだろう。
本堂の西側に稲荷堂があり、稲荷堂の西側に供養塔がある。これについて旧妹尾町が発行した『妹尾町の歴史』には、次のように記されている。
長年この瀬戸にて難破し、人命を失った人も多数あるが、その遺体を収容し、その霊を慰めるため無縁仏の五輪塔が稲荷堂の西側に立てられてあったが、永年にわたり、風雨にさらされ破損甚しく、その形を留めない程になっていたので、新しく昭和七年に御題目を刻した墓碑を建て、もって、遭難者の冥福を祈っておる。
建碑の年は昭和十七年の誤りである。お堂を再建したのは、妹尾の大恩人、妹尾兼康である。詳しいことは本ブログ「平家「瀬尾最期」の舞台」や「涙にくれて道見えず(妹尾兼康の場合)」に書いておいた。悲劇のヒーローは、十二箇郷用水の改修をはじめ、地元に多大な貢献をしている。
振り向かないで歩いて行ける。そんな力があれば、どんなにポジティブな生き方ができるだろう。後ろばかり向いて、これでよかったのだろうかと自問自答し、黒歴史を思い出しては顔をそむける。跡不見の観音さまは、前向きな人生にエールを送っているのかもしれない。
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