草壁皇統という揺るぎなき嫡流がある。天武持統両天皇の愛息草壁皇子の子孫は、文武、聖武、孝謙、称徳と平城遷都から国家仏教を主導し、花咲誇る一時代を築いた。本日の主人公は文武の皇子で聖武の兄弟という血統を誇る。しかし、皇子は幼くして奇瑞を顕し、備中に下って寺を開いたという。
県重文の「皇の墓」がある。あまり見かけない様式の無縫塔である。
なぜ「皇」なのか。何かありそうだ。標柱の説明を読んでみよう。
岩屋寺の開祖、善通大師の墓と伝えられており、大師が文武天皇の皇子であることから、皇の墓の名もこれに由来します。
皇の墓は、花こう岩でつくられた無縫塔で、切り石を四角に積んだ台座にのっています。総高一一九センチ。基礎脚部の形や反花のつくり、塔身の曲線などから、十四世紀、南北朝期を下らない、県内でもっとも古い様式を示す無縫塔の一つです。
善通大師という高僧の墓で、大師は文武天皇の皇子だという。宮内庁は管理しなくてよいのか。高貴な皇子が、なぜこの地にやって来たのか。『備中誌』賀陽郡巻之五奥坂村の項に、次のような文がある。「岩屋山縁起」木下肥後守豊臣公定撰より
于時第四十二代文武帝御宇也。帝一夜夢老比丘奏曰、貧道備中州岩屋山之緇侶也、陛下将有維熊之慶、故来聞奏言訖放光遠逝果皇后有身因勅三条左府家行、往彼州物色則教示滅之日即、帝感夢之時既皇后月満分難(離ヵ)皇子容貌端正、稍及生育不能言語、帝恒吁嗟惋惜左右亦怪難(歎ヵ)矣、会七歳之春挙右手指西方、帝召博士某詢問之、某卜筮曰嘉祥也若鶴駕啓行于備中岩屋山則大吉不可言矣。仍命臣僚扈従清道西轅既歴三七日到于本州血水川口始能言且吟詠而後攀登本山時六僧忽然来謁白言殿下妙齢何故凌嶮難、到斯地其一僧奉献和歌遽然不見臣庶疑為六道能化地蔵薩埵、或為鎮守六所権現焉、後人遂呼其地為菩薩坂、帝聞数件奇瑞乃勅筑前守家定、掌土木之事、大匠源左衛門尉、小野安次也、本堂成夙奉安尊像、七門環繞四樓峙立拜殿彫楹華表装塗丹鎮守当為状也、屋上栖乎金鳳都是宏巌飾不言可知矣、南有五層宝塔香厨鐘楼連甍列層有釈迦堂有経蔵堂東有大門中門各構衛舎、都計殿宇二十有八区小院百十四区也、皇子寓居之所即開社廬遺跡也乃依本山名寺亦号岩屋
第四十二代文武天皇の御代のこと。ある夜、帝の夢に現れた老僧が、こう言った。「私は備中岩屋山の僧侶にございます。まもなく陛下に男児ご誕生の慶事がありましょう。ゆえに来りて申し上げたのです。」言い終わると、光を放って遠くへ去った。案の定、皇后は身に子を宿した。帝は三条左府家行に命じて備中に行き老僧を探させたが、それは開山者道教が亡くなった日であった。ほどなく帝に再び夢でお告げがあり、皇后は月満ちて出産した。皇子は容貌端正であるが、言語の発達に遅れがあった。帝はいつも嘆き悲しみ、怪異だろうと噂された。皇子は七歳になった春、突然、右手で西方を指さした。帝は博士の某を召して、この意味を問うた。某は占って「めでたいしるしにございます。皇子が備中岩屋山にお行きになるなら、言い表せないほど良いことがあるでしょう。」と答えた。そこで家臣らに命じ、小姓を先駆けとして皇子を乗り物で西へ向かわせると、二十一日で到着した。備中の血吸川で初めてしゃべるようになり、さらには歌を吟じた。そして岩屋山に登ろうとした時、俄かに現れた六人の僧が「殿下はお若いのに、なぜ険しい山を登ろうとされるのでしょうか。」と言った。頂上に着いた時には、一人の僧が和歌を献じると、突然見えなくなった。家臣らはみな、六道にあって衆生を導く地蔵菩薩、あるいは鎮守の六所権現がなさったことではないかと感じた。後の人はこの場所を菩薩坂と呼ぶようになった。帝はこれらの奇瑞をお聞きになり、伽藍整備の土木工事を筑前守家定に命じた。現場責任者は源左衛門尉と小野安次であった。本堂落成後すぐに本尊が安置され、七つの門に囲まれ四つの楼閣がそびえている。拝殿には彫刻を施された柱があり朱色に塗られており、まさに鎮守らしく装飾されている。屋上には金鳳が置かれ、荘厳な飾りは言うべき言葉が見つからないほどである。南には五層の宝塔、厨房、鐘楼があり、甍の波が美しい釈迦堂や経蔵堂がある。東には大門中門があり、それぞれ衛舎を構えている。御殿は全部で二十八あり、細かく数えると百十四となる。皇子の寓居は開山者道教の遺跡に設けられ、山の名にちなんで寺の名も岩屋寺とした。
その後、皇子は善通(禅通)大師となり、天平勝宝八年(756)七月七日に七十歳で亡くなったという。文武天皇の夫人は藤原不比等の娘宮子だが、皇子は母を異にするため排斥されたのだろうか。この摩訶不思議な皇子の物語は、足守藩主の木下肥後守豊臣公定が書き記した。本日最終回の大河「どうする家康」で豊臣家は滅亡するが、豊臣姓は絶えていないことが分かる。
出自に大きな価値があったこの時代、武士はみな源姓、藤原姓などを名乗り、そんじょそこらの馬の骨ではないことを主張していた。寺が皇子によって開かれたと伝えられたのも、権威を高めるねらいがあったのだろう。縁起で語られた絢爛な伽藍は失われたが、美しい無縫塔だけがかつての繁栄を物語っている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。