大内氏、赤松氏、尼子氏、そして毛利氏と、周囲の名立たる大名が登場する山城がある。大名たちはこの城のどこに魅力を感じたのか。答えはすぐ隣の「鬼ノ城」にある。瀬戸内に侵入する敵の動向を把握し、中央へ速やかに伝達できる優れた眺望は、古代山城最大の魅力である。本日紹介する中世山城も、この眺望を共有しているのだ。
総社市黒尾に「経山城跡」があり、市史跡に指定されている。頂部は広く、いくつかの区画に分けられている。
主郭にあるのは四等三角点「経山」である。標高は372.62m。ところどころに石垣が残っている。これは北西側の遺構だ。
南に進んで眺望を楽しもう。南西側には横堀が施されている。
この堅固な城には、どのような歴史があるのだろうか。城跡の入口にある標柱の説明を読んでみよう。
経山城は、守護大名の大内氏が天文年間に築いたといわれる山城です。天文十二年(一五四三)に赤松春政、元亀二年(一五七一)に尼子晴久の城攻めがあり、天正十年(一五八二)の高松の役後に廃城となったと考えられます。
城は、山頂の主郭を囲むように壇や郭、曲輪を配し、さらに石垣や石塁、堀切を備えるなど、城の形状がよく残されている山城です。
大内氏最盛期の義隆の時代には、西は北部九州、中国地方は備後備中にまで号令できたというから、経山城もその頃に築かれたのだろう。『備中誌』賀陽郡巻之四「黒尾村」の項には、次のように記されている。
経山城趾
当城大内義隆築之其後毛利領国となり東国の押へとして番兵を籠られ小早川隆景修理して中嶋大炊介元行城代として其外中島右京、石井新兵衛、小川八左衛門、荒木新兵衛、林三五郎、大森市郎兵衛、堀新五郎、和田仁右衛門等都合三百余人守城し鬼の城岩屋等所々に要害を構へて当国両方第一の高山なれバ無類の要害なり
城主として中島元行が登場する。この武将については『古戦場備中府志』に詳しいので読んでみよう。
経山城 中島村。
当城主中島大炊介。其先祖は、大職冠十世維幾一男、二階堂為憲の末裔。父祖遠江守親行は、備中前の守護三村家親・上野氏之・石川久孝一族たれば、清水一家に縁結し、備中に下りて中島を領し、此度一千騎の大将として番丘の手崎を守り、勇功を顕し訖。高松城代松原七郎左衛門盛重入城の後、毛利家より、大炊介にも則賞をぞ賜りける。
二階堂為憲すなわち藤原為憲は、平貞守・藤原秀郷とともに平将門を討った武将である。『鎌倉殿の13人』で北条義時(小栗旬)の継室のえ(菊地凛子)とその祖父二階堂行政(野仲イサオ)が登場した。泰時を差し置いて、のえの実子政村を執権に就けようとした人物だ。その二階堂氏の子孫が中島氏だという。
大炊介元行は毛利勢の一員として備中高松城の決戦を戦った。敗戦後は小早川家に仕え、のち帰農した。彼が著した『中国兵乱記』は当事者による軍記として貴重である。天文十二年の月山富田城の戦いについては、次のような一文がある。「大内義隆尼子晴久を責事并播州赤松備中へ出陣の事」
天文十二年三月四日、大内太宰大弐兵部卿義隆は、筑前・肥後・周防・長門・石見・安芸・備後・備中軍勢十二万余騎相随へ、雲州富田城へ有発向。
九州北部から備後備中まで動員したことが分かる。この隙を狙って、播州の名族赤松氏が動き出す。上記引用文の続きに、次のような一節がある。
于茲播州白旗城主赤松晴政は、備中を責取らんと浦上宗景・宇喜多興家両大将を備中へ相働き、雲州陣立の留守城々を責め随へ候由有注進。二階堂氏行在城には、嫡男新左衛門尉・刑部郷経山城へ妻子親類八百余楯籠り、一筋の道三箇所の難所に大木を切横たへて、所々に石を重置き、敵寄来らば押落さんと手配り、持口を定め相守る。
城主二階堂氏行は、籠城戦を耐え抜き赤松勢を退けた。標柱の「赤松春政」は「赤松晴政」が正しい。時を経て元亀二年二月、「尼子晴久備中へ働き所々城を攻事」で尼子晴久の命により美作から備中へと攻め込んだことが記される。しかし晴久はずいぶん前、永禄三年の暮れ(西暦では1561)に亡くなっており、標柱及び『中国兵乱記』の記述は正確でない。
これに続く「尼子勢経山城主中島元行攻事并尼子勢敗軍之事」には、次のような記述がある。
雲州の大将尼子吏部・大賀駿河守・庄伊豆守・槙木下総守を相随へ、賀陽郡刑部郷経山城主中島大炊助へ使者を立て、当城は尼子幕下に候如先年随身方ば、備中は不及申備前迄も被斬取候へと申越す。
尼子吏部とは尼子式部少輔誠久のことだろう。誠久は新宮党の一員として晴久に粛清されているのだから、年代がまったく異なる。ともかく経山城主中島元行は、この甘い誘いに乗ることなく徹底抗戦。ついに尼子勢の撃退に成功した。
ただし中島元行は『中国兵乱記』の著者である。本人が言うのだから間違いないのか、本人が言うからこそ怪しいのか。おそらく後者だろう。自分の手柄をずいぶん盛っているように感じる。
そもそも、この戦いは史実なのか。標柱の説明は「元亀二年(一五七一)に尼子晴久の城攻めがあり」とありもしないことを書きながら、城を守った中島元行には触れていない。経山城を生涯の誇りとした武将を、もっと顕彰してよいのではないだろうか。
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