羽床(はゆか)という名字は、香川県に集中しているそうだ。ことでんには羽床駅というのがあり、本ブログでも「研辰(とぎたつ)の討たれ」のモデルとなった羽床辰蔵を紹介したことがある。
羽床氏はこのあたりの名族で『羽床村誌』には、「鳥羽天皇の朝、保安元年、従三位中納言藤原家成、讃岐守に任ぜられ、綾大領(あやのかみ)定宣の女を娶り、藤原章隆を産む、章隆の嗣子資高、初めて羽床荘司となり、資高の三男重高、嗣きて羽床荘司となるに及び、羽床を以て氏となす」とある。讃岐藤家の惣領として栄えた。戦国期の羽床資載(すけとし)は、長宗我部元親に降伏するまで独立を保っていた。
赤磐市仁堀西に「宮内城跡」がある。岡山県中央部を東西に結ぶ国道484号を睨む要衝に位置する。
この城は三つの曲輪群からなり、この壁のような堀切は、北側奥の曲輪群の手前にある。いったいどのような武将が関係するのだろうか。『吉備温故秘録』巻之三十七「城趾上」三赤坂郡「宮内城」の項には、次のように記されている。
羽床大和守貞久居城。代々浦上家へ仕へ、当時天神山の麾下なりしが、天文二十年雲州尼子晴久より、人数を指出し当城を攻ければ、大和守防戦ひけれども、城兵少なく終に落城すといふ。このとき大和守討死か、又外へ落けるや、いまだ詳ならず。此合戦のとき葛山をばやき払ひ、村西にこれある地蔵を本陣にして、尼子勢当城を攻落し、これより周匝の城を攻に行しと語伝ふ。
井田村民家に蔵せる古簡の内に、年号なしに羽床正行といふ者あり。此大和が父か子かならん。
高畠城の高畠氏や向日比城の四宮氏と同じように、この羽床氏も四国からって来たのだろうか。しかし、ここはかなり内陸に位置している。浦上氏は四国の細川氏や三好氏と仲が良かったから、その関係だろうか。
出雲から来た猛将と讃岐から来た名族が対決した。この城を落とした尼子晴久は、東へと進んで周匝の城を攻めに行ったという。おそらくは国道484号を進んだのだろう。備前が山陰勢に圧倒されていた頃の話である。
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