河川のカーブの内側は、流れが緩やかで川原ができる。長い年月を経て乾陸化した大きな川原には、田畑や集落ができる。本日の舞台である旭川は、中国山地から吉備高原を南流しているが、津山往来が越える箕地(みのち)峠を越えることができない。山にぶつかった川は大きく東へ曲がり、3kmほどで再び大きく南へ曲がる。
最初のカーブの内側には岡山市北区建部町吉田があり、国道53号が通過する。次のカーブの内側には岡山市北区御津鹿瀬(みつかせ)があり、鹿瀬橋で川越えした国道53号が続いている。
岡山市北区御津鹿瀬に「鹿瀬城跡」がある。川沿いの道から谷に入り込んで尾根に上がり、城の背後からアクセスする。
侵入を阻止しようという強い意志が感じられる深い堀切だ。
主郭は広い。木がなければ対岸の吉田地区を望むことができるだろう。
主郭から先にも城跡は続き、先端にも大きな曲輪がある。石垣らしき石列が確認できる。
この大規模な城に拠ったのは、いったい誰なのだろう。江戸中期の『備陽国誌』津高郡「古城跡」には、次のように記録されている。
古城山 鹿瀬村。城主丹生民部。
また、明治44年の杉謙二編『岡山県名鑑』の附録「備作古城一覧」には、次のように記録されている。
城名 所在地 城主 所属
古城山城 同(※御津郡)金川村鹿瀬 丹生民部 松田氏(?)
丹生氏は、このあたりであまり聞かない。日本歴史地名大系34『岡山県の地名』(平凡社)御津郡御津町「鹿瀬村」の項では、「丹羽民部」と間違えられているくらいだ。民部は民部省に由来する百官名である。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書(備前編)』の「鹿瀬城跡」には、「赤松氏家臣丹生民部が在城したという。」と記されている。所属は松田氏なのか赤松氏なのか。ふつうに考えれば、松田氏の金川城と同じ山塊に属するのだから、鹿瀬城は松田氏の城で東方の赤松氏(浦上氏)に備えていた、と考えるのが自然だろう。金川城から尾根伝いに鹿瀬城への移動が可能なことは、実際に歩いて確かめた。
今、鹿瀬城が睨みを利かせているのは、津山往来ではなく国道53号である。こちらは主要な陰陽連絡道であるが、南北ともに警戒すべき敵はいない。ウクライナ戦争は2年となり、イスラエルのガザ侵攻も終わりが見えない。戦いが過去のロマンとなる日は来るのだろうか。
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