周匝(すさい)は備作国境の要衝で、国道374号で南北へ通じ、国道484号で備前西部へと進入できる。水運が盛んだった吉井川の中流部に位置することも見逃してはならない。
この周匝のシンボルが、吉井城山公園の模擬天守である。史実とは異なるものの、確かにそこには山城があった。見晴らしのよい場所を選んでいることが分かる。本日は模擬天守には向かわず、左へ折れて別の尾根を進もう。そこには技巧的かつ大規模な山城があった。
まずは進入を阻止する堀切である。この大堀切の前後にも何条か設けられている。
まっすぐな横堀に続いて、ウネウネした畝状竪堀がある。西側斜面の上には虎口が設けられている。遺構はよく保存され、表示があるため見学しやすい。
赤磐市草生(くそう)に「大仙山城跡」がある。模擬天守のある茶臼山城と一体的に運用されていたらしい。
いったいどのような歴史があるのだろうか。落城悲話については以前の記事「備作国境戦国若君哀話」で紹介した。笹部亦次郎(勘斎)や星賀藤内の名前が、寛政年間の『吉備温故秘録』で確認できる。他の文献にも当たってみよう。
19世紀前半の『東備郡村志』第六巻赤坂郡「周匝郷」には、次のように記されている。
【周匝村】
▲城址。人里の北山上にあり。浦上宗景の将笹部勘次郎これを守る。天正七年正月、直家花房助兵衛をして攻めしめ即日城を屠る。勘次郎城外に遁れ山下の一の谷と云処にて自殺す。墓今にあり。里民は保鹿仙千代の墓と云ふ。仙千代は保鹿藤内が子也。一書に、藤内この城に居るも。
ここでは笹部勘次郎と保鹿藤内となっている。同一人物を指すことは間違いないだろう。次に18世紀初頭の『和気絹』下「赤阪郡」には、次のように記されている。
一、周匝城。周匝にあり。保鹿藤内居城。或る書に星賀共。
城主は保鹿(星賀)藤内が有力なように思える。いずれにせよ浦上宗景の側で宇喜多直家に対抗した武将だったのであろう。技巧的な山城であるが意外に脆かったのは、直家の調略が奏功したからかもしれない。
登城路入口の説明板には、次のように記されている。
大仙山城概要
この大仙山城は、戦国時代の山城で、これまで発掘はされていないが、数回にわたって専門家による調査が行なわれてをり、詳細な縄張の概要が明らかになっている。
それによれば、茶臼山城から延びる尾根の鞍部から頂部の主郭までには竪堀、大規模な堀切、土塁が存在する。
頂部は平坦に造成して、中には二段の方形土壇が造られている。この主郭を囲むように腰曲輪を配置し、南側には井戸と池がある。
東に下がると土塁に囲まれた二段の出曲輪がみられ、いずれにも池がある。主郭の北には土塁で囲まれた池をもつ曲輪があり、さらに下ると堀切と大規模な竪堀がみられる。
主郭への虎口(出入り口)は西側にあり、この主郭の西斜面には二十本程の竪堀群がある。土塁は吉井川に面する東斜面の一部を除くすべてに巡らしている。城全体の防御をみると、南からの攻撃を強く意識した縄張りで、これは一五七七年(天正五)に、主君の浦上宗景を天神山城で落した宇喜多直家の北侵に対抗するものと考えられる。
周匝史跡保存会
寄せ手の宇喜多直家は登場するが、守り手は分からない。浦上氏の配下だったことが分かるだけだ。『吉備温故秘録』と『東備郡村志』の記述を都合よく解釈すると、次のようになる。
・天文二十一、二年 浦上宗景、星賀(保鹿)藤内 × ← 尼子晴久
・天正七年 浦上宗景、笹部勘次郎(亦次郎、勘斎) × ← 花房助兵衛、延原弾正、宇喜多直家
備作国境の要衝だけに北からも南からも狙われていたことが分かる。
堅固に見える山城の遺構を見れば、処々に鮮やかなツツジが新緑に映えている。そよ吹く風は、思考していたことを忘れさせる。このようにして敗軍の将の名は曖昧になったのかもしれない。
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