オセロ発祥の地は水戸市だという。現在の水戸第一高等学校に通っていた長谷川五郎さんと仲間たちの遊びから生まれた。当時の石は牛乳瓶の蓋であった。だからと言って、「オセロ発祥の地」という記念碑があるわけではないようだ。
岡山県小田郡矢掛町東三成の吉備真備公園に「囲碁発祥之地記念碑」がある。
囲碁といえば「本因坊」。囲碁「本因坊」発祥の地というのが京都市中京区寺町通夷川上ルにあるそうだ。一世の本因坊算砂が住んでいた寂光寺塔頭本因坊跡地だという。だがこれは近世初期のこと。
奈良時代の吉備真備と囲碁は、どんな関係があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
囲碁発祥之地記念碑について
奈良時代の偉人正二位右大臣吉備真備公は二度にわたって万里の波涛を越え遣唐使として唐の都長安に渡航し国威発揚に尽力され天平七年(七三五)帰国に際しては当時世界最高といわれた唐の最新の文化を数多く持って帰り、日本の政治文化軍制の発達に大きな功績を挙げました。
平安時代後期に書かれた江談抄には吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、これが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であるところから、吉備真備公が、日本における囲碁の開祖として伝えられ、その後の各種辞典、又著作に現れております。
その故に吉備真備公は日本における囲碁の開祖であり、その居館跡を囲碁発祥の地として、吉備真備公の遺徳を顕彰するためにここに記念碑を建立したものであります
平成二年十月 吉備保光会
『江談抄(ごうだんしょう)』第三雑事「吉備入唐事」では、唐に渡った吉備真備が数々の難題を吹っ掛けられるが、知恵と秘法、そして阿倍仲麻呂の幽鬼の助けで切り抜けるという痛快なエピソードが語られている。その一つは、次のような話だ。
又聞天去るに、唐人議云、才はありとも、芸は必ずしもあらじ。以囲碁欲試といひて、以白石擬日本、以黒石擬唐土て、以此勝負殺日本国客様を欲謀間、鬼又聞天令告吉備。吉備令問聞囲碁有様。就列楼、計組入三百六十目計、別天指聖目、一夜之間案持了之間、唐土囲碁上手等選定集て令打に、持にて打ち無勝負之時、吉備偸盗唐方黒石一飲了。欲決勝負之間、唐〔人イ〕負了。唐人等云、希有事也。極めて怪しといひて計石爾、黒石不足。仍課筮占之、盗みて飲むといふ推之大爾争爾、在腹中、然者瀉薬を服せしめんとて、令服阿梨勒丸。以止封不瀉之、遂勝了。
「文才があるが、ゲームは苦手じゃないのか。」と考えた唐人は、囲碁で真備を試すことにした。白石を日本、黒石を唐に見なして、この勝負で真備を殺してやろうと謀を巡らせた。そう聞いた幽鬼はさっそく真備に伝えた。真備は囲碁のやり方を聞き、楼の天井を碁盤の目に見立てて、一夜のうちに引き分けに持ち込む方法を考えた。そして唐全土から選ばれた囲碁名人と対戦し、引き分けとなりそうな時、真備は唐方の黒石を一つ飲み込んで隠した。勝敗を決めてみると唐方の負けであった。「稀有なことだ。極めてアヤしい。」と石を数えてみると、黒石が不足している。そこで占って調べると「盗んで飲んだ」と出た。大いに争って、腹の中にある黒石を出させようと、下剤のを訶梨勒丸(かりろくがん)飲ませることにした。しかし真備は下すのを封じてついに勝ったのである。
なかなか面白いが、フェアプレーの観点からはいかがなものか。それでも覚えた囲碁を持ち帰って普及させたのなら、真備は日本における囲碁の開祖であろう。この説話の最後は、次のように締めくくられる。
我朝高名只在吉備大臣文選・囲碁・野馬台、此大臣徳也。
唐で名を上げた日本人は吉備真備だけだ。中国の古典全集『文選』、囲碁、謎の予言詩「野馬台詩」が伝えられたのは、吉備大臣のおかげでる。このように真備が囲碁を伝えたとされるのだが、『隋書倭国伝』には「好棊博握槊樗蒲之戯」と倭国の人々が好む遊びが紹介されており、このうち「棊博」は囲碁のことだそうだ。つまり聖徳太子の時代には、すでに囲碁が普及していたということである。
史実として吉備真備が囲碁を伝えたと認められないが、説話としては真備が開祖でよいだろう。ただし、帰国した真備が居館で囲碁講座を開いたという証拠はなく、ここが囲碁発祥の地として妥当かどうか。
倉敷市真備町箭田のまきび公園に「カタカナ五十音の碑」がある。正式な名称は知らない。
亀は亀趺(きふ)という石碑の台座である。板状の石碑はよく見かけるが、球形は珍しい。刻まれているのはアイウエオカキクケコ…の五十音図である。吉備真備の偉大な功績の一つに、カタカナそして五十音図の創案がある。
文字を発明するとは、ハングルを考え出した世宗大王にも匹敵する偉業だ。本当なのだろうか。室町時代の語学書『倭片仮字反切義解(やまとかたかなはんせつぎげ)』(花山院長親)には、次のように記されている。
到於天平勝宝年中右丞相吉備真備公取所通用于我邦仮字四十五字省偏旁点画作片仮字。抑四十字音響及阿伊宇江乎五字此乃天地自然之倭語焉。是故竪列五字橫列十字加入同音五字為五十字。且又横十字随唇舌牙歯喉用宮商角徵羽変宮変徵七声哉。蓋世俗伝称之云吉備大臣倭片仮字反切有其口決矣。
天平勝宝年間(749~757)に至り、右大臣吉備真備公が我が国に通用していた万葉仮名45字から「へん」「つくり」「点画」を省いてカタカナを創った。そもそも40字音の響き及び「あいうえお」の5字は天地自然と同じ我が国にもともとあった言葉だ。こうしたことから、同音5字を加えて縦に5字横に10字の計50字とした。そして、横の10字は口やのどの動きによって「宮」「商」「角」「徵」「羽」「変宮」「変徵」の7音階を用いる。世にいう「吉備大臣倭片仮字反切」であり、口伝えが行われている。
なかなか説得力がある。これが根拠となり、カタカナは吉備真備が創出したとの説が広まったようだ。ひらがなは空海の考案というのも近世の常識だった。しかし研究によれば、吉備真備の奈良時代は万葉仮名が使われ、カタカナは9世紀初頭になって現れた。ちなみに、ひらがなは9世紀後半、五十音図は平安中期の誕生だという。
囲碁にしても、カタカナや五十音図にしても、吉備真備は開祖でも考案者でもなさそうだ。では、本当に真備公が伝えたのは何か。意外に知られていないが、真備公は音楽への関心が高く、則天武后直撰の『楽書要録』という理論書を唐から持ち帰り、雅楽の発展に大きな影響を与えたという。
分かりにくい真実は、分かりやすい言い伝えに勝つことができない。そりゃ音楽理論よりも、囲碁でありアイウエオだろう。偶像化が進むにつれ、話は盛られていく。史実の追究というよりも信仰に近いものを見ているような気がする。
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