文久二年十二月五日(すでに1863年)をもって我が国の国是は攘夷となった。幕府が勅を奉じて攘夷を行うことを約したのである。このため文久三年は五月十日の攘夷決行日、八月十三日の攘夷親征と盛り上がったが、同月十八日の政変で破約攘夷の急進派が追放される。
過激な主張は鳴りを潜め、問題は横浜鎖港に焦点化された。交渉を重ねたもののうまくいかず、慶応元年(1865)十月五日に至り条約勅許となった。しかし兵庫だけは開港を許されないままだったが、慶応三年十二月七日(この日から1868年)に勅許された。
そして十二月九日、王政復古の大号令が発せられ、新政府が創設された。年が明けて慶応四年一月十一日、神戸事件が勃発。十五日には新政府樹立を対外的に宣言し、開国和親を表明した。しかし攘夷の空気は、依然として其処此処に漂っていた。
開国和親の国是が徹底されたのは、明治二年(1869)五月のこと。上局会議という国会の萌芽のような機関が新設され、外交について天皇が諮問する形で、国家の意思が次のように示されたのである。田中惣五郎『明治維新体制史:復古維新現状派の相関性』千倉書房(昭和16年)より
二十二日には、諸侯、中下大夫、上士を会して皇道興隆、蝦夷開拓の二条を勅問あらせられ、二十四日には更に、行政官、親王、公卿、諸侯等に、外国交際、会計の二条を御下問あらせられた。外国交際は、「夫れ宇内に国するもの、内外親疎の別ありと雖も、安んぞ相往来せざるの理あらんや。既已に往来す、亦盟約の信を固くせざるべからず。故に信義を尋ね、条理を追ひ、愈以て独立自主の体裁を確立候儀、交際上の準的と思召され候間、意見忌憚なく申出べく候事」
といふのであり、攘夷的な空気の濃厚な当時としては、この準的はなか/\に納得が行かず、敢てこの平明の理を諮詢の形で徹底せしめようとされたのであった。
天下にある国々、親しさはさまざまだが、外交を結ばない理由がどうしてあろうか。我が国にはすでに外交を開いている国があり、信頼関係を強めないわけにはいかない。だから、信義と道理を追求することで独立自主の国家体制を確立することは、外交上の標準的な考えだと思うのだが、忌憚のない意見を申し述べよ。
外交関係を結んで仲良くするのは当たり前でしょ。どう思う?と問われても「御意にござります」としか言いようがない。国家の意思が、国民にも明確に示されたのである。
本日は攘夷が国是だった時代の史跡を訪ねたレポートをお届けしよう。
岡山県小田郡矢掛町横谷に「猿掛砲台跡」がある。
猿掛城跡の矢掛側登山口から山を少し登り、左手に中腹を進むと土塁が見つかる。木々のため眺望は利かないが、向こう側には小田川を挟んで山陽道が通過している。何を意図した砲台なのか。説明板を読んでみよう。
猿掛砲台跡
これは延長一六mの土塁である。この土塁は慶応三年(一八六七年)に岡山藩の要請に基づき丹波国亀山藩主松平紀伊守が築造したものである。岡山藩は松山藩の動向に警戒し、富山へ築いた富砲台と亀山藩の猿掛砲台により守備を堅めたが、これらの砲台は一弾の発砲もなくその役を終え、現在に至っている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
慶応三年に岡山藩の要請により丹波亀山藩主松平紀伊守が築造したという。この殿様は形原(かたのはら)松平家丹波亀山藩7代藩主信義だろう。ところが信義は慶応二年に没しており、同三年の当主は信正であった。信正は図書頭であって紀伊守ではない。岡山藩の小串砲台や下津井砲台は文久三年だから、猿掛砲台もその頃かもしれない。
なぜ丹波亀山藩が築造したのか。備中国小田郡横谷村は備中庭瀬藩領で、岡山藩、亀山藩ともに直接の関係はない。ただし、丹波亀山藩は備中玉島にも領地があり、今の倉敷市玉島二丁目15のあたりに代官所を設けていた。
岡山藩と備中松山藩との緊張関係が最も高まるのは、慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦い後であるが、前年から砲台を築いて警戒するほどだったのだろうか。しかも、砲身が向けられているのは東西を結ぶ山陽道であり、松山(高梁)と玉島湊とを結ぶ玉島往来ではない。
佐幕藩の攻撃に備えたと考えるより、攘夷に備えて海路陸路ともに砲台を整備したとするのが分かりやすいのだが、どうだろう。いずれにせよ、16mの土塁は無用の長物と化して終わった。
長崎市が平和祈念式典に駐日イスラエル大使を招待しなかったことで、アメリカなど主要6か国とEUの駐日大使が式典を欠席した。市長は「政治的な理由ではない。」と弁明したが、政治問題化したことが判断ミスだったと言わざるを得ない。戦争当事者こそ招待すべきなのだ。核兵器こそ無用の長物にせねばなるまい。