国境は常にトラブルの現場になっている。いま世界で一番話題になっているのは米墨国境で、米国トランプ新大統領はメキシコとの国境で国家非常事態を宣言するといい、メキシコ湾はアメリカ湾に改称するという。それなら我が国も、日本海を東海として太平洋を日本海にすればよい。偉大な日本の復活だ。
冗談はさておき、我が国も国境問題を抱え解決の見通しはまったくない。しかし本日は、解決済、しかも忘れ去られた国境問題を紹介する国内からのレポートである。
岡山市南区大福、同区藤田、同区東畦の境に「第一国境標石」がある。「從是東南備」の文字が確認できる。
今は同じ市の同じ区に属するから誰も気にしないが、かつては備中国都宇郡大福村、備前国児島郡興除新田ノ内東疇、そして近代に成立した児島郡藤田村であった。備中側の大福村は旗本の妹尾戸川氏領、備前は岡山藩領である。
吉備中山から境目川として南へと伸びた両備国境は、足守川に出て笹ケ瀬川に合流し、第一国境標石に至る。この標石は備前国の範囲を示しているのだろう。説明板を読んでみよう。
備前備中境界石
江戸時代に備前、備中の間で、永い年月にわたり漁場の紛争が続いていた。これに対し、幕府は「海縁堤際限り備中地内」、海は「備前の海」と裁許を下した。これにより設置された標石である。
なお、同じものがこれより西約千三百メートルのJR瀬戸大橋線の線路敷にもある。
岡山市・福田地区地域活性化事業実行委員会
備中国都宇郡と備前国児島郡の間には海があり、漁場争いが生じていた。そこで幕府は、都宇郡側から広がった干拓地の堤防までは備中国、その先の海は備前国と裁定したというのだ。線路敷にあるという標石を探すことにしよう。
岡山市南区大福と同区東畦の境に「第二国境標石」がある。
「従」らしき文字は見えたが、「従是」までは視認できるらしい。毎日多くの人が電車で通過しているが誰も気付かない。川向うなので線路脇からもよく見えない。もっとも見つけにくい史跡である。
岡山市南区箕島、同区妹尾、同区内尾の境に「第四国境標石」がある。「従是西南備前國」と示されている。
かつては備中国都宇郡箕島村、同郡妹尾村、備前国児島郡興除新田ノ内内尾の境であった。備中側の箕島村は旗本の花房氏領、妹尾村は妹尾戸川氏領である。説明板を読んでみよう。
児島湾干潟で江戸時代に約100年間にわたって続いた紛争の最終解決を物語る、貴重な歴史遺産です。新田開発による国力増強を図ろうとする徳川幕府と、その支配下の岡山藩や旗本領の思惑に、漁業権などの権益の保持拡大を図ろうとする備前・備中の村々の利害が複雑に絡み合い、国境論争にまで発展しました。
幕府の数度の裁定を経て、文化13年(1816)、最終的な解決に至り、それに基づいて文政4年(1821)、東は大福の笹が瀬川近くから、西は倉敷市帯高地内に至る間に、石製の10本の境界杭が設置されました。これはそのうちの東から4番目の標石です。3番目の標石も妹尾地区内に設置されましたが、現在は公道の下に埋められており、見ることができません。
(看板提案: 妹尾・箕島を語る会)岡山市
ここは単なる海ではなく干潟であった。干潟を利用できるのは誰か。干潟を干拓しようとしたのは誰か。これによって不利益を被るのは誰か。住む場所や生業によって考えは異なっただろう。文政四年(1821)に至り、両備国境は標石で明確に示された。2023年は興除新田開発200年だったが、開発当初にお祝いムード一色だったわけではなさそうだ。
都窪郡早島町前潟、倉敷市茶屋町早沖(ちゃやまちはやおき)、岡山市南区内尾の境に「第六国境標石」がある。「從是東南備前國」と刻まれている。
かつては備中国都宇郡前潟村、同郡(早島)沖新田村、備前国児島郡興除新田ノ内内尾の境であった。備中側の前潟村は帯江戸川氏と早島戸川氏との相給、早島沖新田村は早島戸川氏領である。
町指定重要文化財
史跡 備前・備中国境標石
(昭和44年6月17日指定)
早島町の歴史は、町の南部に広がる児島湾干拓の歴史でもある。人々は多くの労力と工費を費やして、この児島湾の干潟に前潟・沖新田などの新たな大地を開いた。そしてさらにその南東にひろがる広大な干潟の開発を計画した。ところが、その干潟の帰属をめぐり早島を始めとする備中の旗本領の村々と対岸の備前児島の村々が激しく対立し、寛延・宝暦・文化の各時代、約百年にわたる裁判となった。その結果、今ある備中方の新田の堤を国境線とし、それより南の干潟と海は備前領にするとの裁許が下った。そして1823年(文政6)、この干潟は備前領の村々によって開かれ、「興除新田」と名付けられた。この国境標石は、1814年(文化11)の裁許の後、その国境を示すために建てられた10本の一つで、早島の干拓の歴史を今に伝える貴重な資料である。
なお、この標石は昭和41年に盗難にあったが、その後無事に戻され、元の場所から若干早島側の現在の地に設置されたものである。
トラブルの要因となったのが「干潟」であったことが明示されている。備中側の旗本領の村々はさらなる農地確保を図ったが、備前側の村々に阻まれた形で決着している。周囲に広がる田んぼからは、そんなトラブルなど想像すらできない。
倉敷市茶屋町早沖と岡山市南区中畦の境あたりに「第七国境標石」がある。「從是東備前國」と刻まれている。
かつては備中国都宇郡郡(早島)沖新田村、備前国児島郡興除新田ノ内中疇の境であった。
第七国境標石
備前の国と備中の国の国境が決定したのは、宝歴八年(1758)のことです。この時、木製の分間杭を東畦から西畦まで百五十本建てました。これで備前と備中の国の境界が確定したのです。その後木製では消滅のおそれがあるので、文政四年(1821)改めて標石十本に変えました。
これは東畦から七番目の標石です。
「從是東備前国(これよりひがしびぜんのくに)」
木製の杭を石製の標柱としたのが文政四年(1821)であった。標石はいずれも「ここから先は備前国だよ」と示している。おそらく備中側の村々に対するメッセージなのだろう。
倉敷市茶屋町に「備前・備中 国境の境界石」がある。国境という重要な境界が一つの字の中に消滅している。なぜ、このようなことになったのだろう。
倉敷市教育委員会が設置した木製標柱があるので読んでみよう。
「備前・備中 国境の境界石」
この畦にある対をなす三角形の置石は、備前・備中の国境を示す標石を補うために置かれたものと思われます。
十本の国境標石を補う境界石だという。地名の境界としての役割があったのはいつまでなのか。調べてみると、この畦道より北側はかつて備中国都宇郡(帯江)沖新田村で帯江戸川氏領だった。南側は備前国児島郡鶴崎新田だった。
帯江領沖新田村は明治になって帯江新田村となり、江島村帯江新田、茶屋町帯江新田を経て、昭和47年に倉敷市茶屋町となった。いっぽう鶴崎新田は興除新田ノ内西疇の一部とされ、西疇村、西興除村西疇、興除村西疇を経て、昭和22年に茶屋町帯江新田に編入され、倉敷市茶屋町となった。
鶴崎地区編入は用水の便宜が理由とのことだ。ヨーロッパとアジアにまたがるイスタンブールと同じように、備中と備前にまたがる茶屋町である。イスタンブールにはボスポラス海峡という大きな境界があるが、茶屋町ではいくつかの三角形の石だけが旧国を偲ぶ縁となっている。
倉敷市帯高と倉敷市藤戸町天城の境のあたりに「第十国境標石」がある。「從是東南」の文字が確認できる
かつては備中国窪屋郡高沼村と備前国児島郡天城村の境であった。高沼村は帯江戸川氏の領分である。標柱には次のように記されている。
「備前・備中 国境の標石」
この標石は、備前と備中の国境を示すために置かれた十本のうちの一つです。
もっとも簡潔な解説である。国境標石十本のうち六本+αを紹介した。線路敷、住宅街の一角、墓地…そして川のほとり。干潟を陸化して豊饒な水田と為す。大いなる夢とその権利が認められなかった無念。ここが、かつて哀感が交錯した国境地帯であることを、わずかな石だけが今に伝えている。