中央にあっては老中白河楽翁、地方にあっては早川代官。松平定信の寛政の改革は厳しい取締りのイメージが強いが、地方行政において名代官を数多く輩出している。やはりトップが明確に方針を示すことで、部下が動きやすくなったのだろう。その改革の根幹は、農村振興である。
高梁市成羽町布寄(ふより)に「早川代官墓碑」がある。
早川代官は天領久世陣屋の20代目として赴任し、14年の長きにわたって善政を布いた名代官である。久世における顕彰は「子育てと教育の名代官」で紹介した。この墓碑も顕彰碑の一つである。
葬られたのは今の墨田区横川一丁目にある霊山寺だったが、廃墓となったという。顕彰碑はここ高梁市成羽町布寄の他に、真庭市台金屋、笠岡市笠岡の敬業館跡、埼玉県八潮市八條の大経寺にも建てられている。いずれも早川代官の管轄地である。布寄の顕彰碑について、説明板を読んでみよう。
早川代官墓碑
早川八郎左ェ門正紀公と号し、江戸の人で、天明七年(西歴一七八七年)徳川幕府の命により代官として大庭郡久世に在任され当地もその管轄となり善政に浴す。当地庶民は教育もなく非倫の行い多く正紀公は、先ず拾子を禁じ、勅倹を進め農業養蚕を奨め溝渠を開通し治水を計り産業の発展に尽された。とりわけ天明の大飢饉のさいは年貢を免じ、干天続きでも収穫出来る薩摩芋の栽培を伝授して飢を、お救い下さったという。
当地にも度々ご巡視されましたが、文化五年関東で没せられ、その訃報に接し遺徳を偲ぶ村人等は天を仰ぎ地に伏して号泣したと伝えられる。
村人等はこの墓標を建立し二百余年前より毎年お盆には正紀公の遺徳を偲んで早川踊りを奉納し現在も踊りつがれている。
成羽町観光協会中支部
平成元年五月吉日
生活改善、産業振興、インフラ整備、減税、作付転換…。さまざまな施策で農村の立て直しを図った。代官の訃報に接した村人は、天を仰ぎ地に伏して号泣したという。人々は、早川代官が赴任後初の巡視の折に休憩した、という場所に顕彰碑を建てた。それほど慕われる人物だった。
墓碑の文面を確認しよう。判読できない部分は竹内明照『成羽史話』(成羽町教育委員会)で補った。
【正面】
宝岸院殿到誉離染居士
【右側面】
文化五辰年十一月十日
久世先君
早川八郎左衛門源正紀公墓
【左側面】
たのもしや五つの道を守りてぞ
ひとつ心の民の誠は
発願主 穴田郷 三村文水
世話人 木野村中
本願主 隣郷中
五つの道とは仁義礼智信である。代官が啓発活動に力を入れていたことが分かる。発願主の三村文水は穴田郷中野村(高梁市宇治町本郷あたり)の庄屋、木野村はこのあたりの小字木之村である。天領の人々が結束して代官を顕彰したのだ。リーダーたる者かくあるべし。米国大統領再選を果たしたトランプなる者も見習うべきだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。