唐招提寺で鑑真和上坐像を拝ませていただいたことがある。あまりにも有名な肖像彫刻で国宝に指定されている。博物館の特別展にお出ましになることはあるが、厳かなお寺の佇まいのほうが畏敬の念が強くなる。部屋奥にまします和上像を前に、私は正座し暫く合掌していた。諸人去(ゆ)かずんば、我即ち去かんのみ。勇気がもらえる名言だ。
美作市真神(まがみ)の真木山上に「(伝)鑑真和尚之墓」がある。「開山跡」との表示もある。
ここは「真木山大伽藍跡」といい、山麓にある「真木山長福寺」がかつてあった場所である。長福寺駐車場にある説明板の関係部分を抜粋して紹介しよう。
長福寺の文化財
当寺は奈良時代の天平宝字元年(757年)女帝孝謙天皇の勅願により、唐の鑑真和尚が真木山頂に開基し、弘安8年(1285年)になり天台宗の円源上人が中興した。明徳年間(1390年頃)に真言宗の寺となり、山上に65坊が建ち並び隆盛をきわめていたが、享保16年(1731年)寺領を30石に減らされたため、僧房を22ヵ寺に合併した。その後明治維新で4ヵ寺となり明治9年奥の院の長福寺ただ1ヵ寺となった。大正14年焼失し昭和3年現在地に移転した。
(中略)
昭和55年3月
平成27年6月改
真木山長福寺
美作市教育委員会
唐の高僧鑑真が開基したという。和上が唐招提寺を開いたのは天平宝字三年(759)だから、長福寺の歴史はそれより古いのだ。この石積みの墓は、平成三年発行の英田町史第二集『英田町の地区誌』にも「鑑真上人の墓」として掲載されている。ただし「開祖の鑑真和尚の墓といわれるが、さだかではない。」と説明されている。
そりゃそうだろう。和上の遷化は『続日本紀』巻第廿四天平宝字七年五月六日条に「和上預記終日至記端坐怡然遷化時年七十有七」と記録されている。天平宝字七年は763年である。唐招提寺には開山御廟というお墓がある。土壇の上に宝篋印塔が据えられ、清らかに整備されている。真の墓は御廟で間違いない。
鑑真和尚を開山と敬慕する真木山は、かつて65坊建ち並ぶ大寺院だったという。確かに山上は広く、石垣が整えられた平坦地が多い。ただ表土は荒れるか草木に覆われており、かつての面影を偲ぶのは難しい。
今から百年前の火事が契機となって、昭和3年に山上伽藍は山麓へ下りたようだ。あの有名な三重塔は昭和26年まであった。よく見ると山上にもまだ建物があるではないか。
「開山跡」の左斜め下に「鎮守山王宮跡」(平成八年四月一日 英田町教育員会)の標柱と建物がある。『英田町の地区誌』にも「山王様」として掲載され、「真木山頂に残っている唯一の建造物で朽ち果てるままである。」と説明されている。この説明から三十年以上の歳月を経た令和4年夏の写真撮影時には朽ち果てていなかったが、その後、倒壊した。
真木山上にある長福寺旧跡。ここへは中国自然歩道を進めばよいのだが、辿り着くのにどれほどの急坂を上ったことか。真木山長福寺は現在、真言宗御室派で、その昔は天台宗だったという。比叡山も高野山もかつては、このような隔絶の地だったに違いない。
登山口に「千早の滝」がある。二条の滝水が涼を誘う。この日は水量が少なかったようだ。
アクセスは容易だから、三重塔を見学したらこの滝に足を延ばすとよい。説明板を読んでみよう。
美作市指定重要文化財(名勝)
千早(ちはや)の滝
Waterfall of Cihaya
この谷を上ると真木山頂に行きつく、真木山からの流水が流れ込み滝となっている。
滝の落差は約17mで、幅は約3mとなっている。
両岸は50mほどある絶壁で、その間から滝水が二条になって落ちている。滝の近くに水神様が祀られている。
指定年月日 平成17年3月31日
合併以前の指定年月日(平成7年4月1日)
美作市教育委員会
千早は地名や人名、そして、ちはやぶるという枕詞として知られる。勢いが激しいことを表す言葉だから、この滝も水量の多い時季には豪快な姿を見せてくれるのだろう。この川は神田(こうだ)川というらしい。やはり神にかかる枕詞だったのか。
高僧鑑真の眠る真木山、谷水を集めて流れ落ちる千早の滝、それに続いて穏やかに流れる神田川、さらには河会川、吉野川、吉井川、そして瀬戸内海に出る。その瀬戸内海を通って鑑真和上の船は大和川に入ったという。日中友好の兆しが感じられる今こそ、鑑真和上の足跡を顕彰したいものだ。
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