納税者が国や地方公共団体、特定公益増進法人などに対し、特定寄附金を支出した場合には、所得控除を受けることができるという。所得税の寄付金控除である。公のために貢献すれば、税が軽減されるということだ。税制優遇は、歴史上いくらでもあった。
小野市河合中町の新宮神社前に「太閤渡し」がある。
太閤と言えば豊臣秀吉。播磨平定に活躍した秀吉だから、ゆかりの地は珍しくないだろう。土手道の向こう側は大河、加古川である。今のような常設の橋は、それほどなかったはずだ。後の太閤殿下は、何のために渡河しようとしたのか。説明板を読んでみよう。
太閤渡し
この渡しの名称は、天正六年(一五七八)織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、三木別所氏を攻める途中、ここで河合郷新部村の船頭、山田新介らの手を借りていかだで軍勢を渡したことにはじまると伝えられています。これに対する報奨として、秀吉は渡し舟の運行を許可し、賦役の免除の墨付(証文)をも与えています。それ以後、現在の小野市と加東郡社町を結ぶ重要な交通機関として昭和四十年頃まで渡し舟の運行が続けられていました。
太閤様御免状
河井郷しんへい
村船頭四人者
人夫令免除
候間可得其意也
九月五日秀吉(花押)
河井郷しんへい村
山田新介
時は天正五年(1577)、西播磨の上月城を攻略し守備隊として尼子再興軍を配置した秀吉は、播磨一国を平定したかに見えた。ところが、翌六年(1578)に東播磨三木城の別所氏が毛利氏側に離反すると、秀吉はその平定に向かわねばならなかった。
ざっくり言えば、兵庫県道23号三木宍粟線のルートで三木へ向かったのだろう。県道なら加古川を粟田橋で渡る。鉄筋コンクリート製の頑丈なこの橋は、青野ヶ原演習場の戦車でも通過できるよう昭和9年に架けられ、それ以前は「粟生の渡し」という渡し船があったという。
粟田橋の上流に平成6年竣工の新大河橋があり、加古川と東条川の合流地点がある。太閤渡しの碑があるのは、その少し北である。越すに越されぬ加古川。橋のない大河を越えるのは、かつて至難の業であったろう。太閤殿下の渡河については『播磨鑑』に記録がある。加東郡名所旧跡竝和歌附異談「河合川」の項である。
天正六年寅の春秀吉公三木の城へ発向の時此川を越させ玉ふとて
河合川水の流れはよとむとも
いさむ心ははやきものゝふ
寔(まこと)に文武二道の名将にてわたらせ玉ふ事かと聞伝ふる国人感し申さぬはなし
このあたりでは加古川を河合川と呼んでいたようだ。加古川の水の流れは緩やかだが、戦を前に勇む武士の心は逸(はや)るばかりだ。しかし、深い川を渡る術がない。窮地の秀吉軍に手助けしたのが、地元の船頭、山田新介らであった。4人に対する特権の付与は、公への貢献に対する報奨である。
堤防に出て川面を眺めれば、雨が降ったからか水が茶色く濁って淀んでいる。どのくらい深いのか見当もつかない。当時が同じとも思えないが、渡し舟がなければ進めないほどの大河だったのだろう。秀吉軍は激しい抵抗に遭いながらも勝利し、最終的に権力者として「公」となった。だからこそ税制優遇ができたのである。就任前のトランプ氏にビッグテック各社がすり寄ったのも、結局そういうことなのだろう。
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