私が子どもの頃には仮面ライダーカードやブルースリーカードを集めていたものだが、今の人は「マンホールカード」を集めているらしい。国民的ヒーローがマンホールに取って代られるとは想像すらできなかった。
いやしかし、マンホールもよく見ると優れたデザインだ。最近はキャラクター入りの凝ったものが多いが、ひと昔前は町のシンボルのみのシンプルなデザインが主流だった。特に、平成の大合併前の市町村のマンホールは、カードになることもなく今や貴重な存在である。
これは鳥取県西伯郡名和町のマンホールである。今は合併して大山町になっている。名和町の花はサクラで、名和公園の桜はお花見スポットだ。そのサクラの花の中心に町章が置かれている。
町章は「ナワ」を帆掛け船の形にデザインしている。帆掛け船は、この町を代表する武将の家紋に由来する。名は名和長年、南朝方で楠木正成、新田義貞と並び称されたヒーローである。
鳥取県西伯郡大山町名和に町指定史跡「名和公屋敷跡及び碑」がある。
名和氏は長年(ながとし)、義高(よしたか)父子が相次いで戦死した後、肥後八代に本拠を移した。にもかかわらず、なぜ、ここが屋敷跡だと分かったのだろうか。説明板を読んでみよう。
名和公屋敷跡
名和氏2代の館の跡で、「又太郎屋敷」、または「デーノヤシキ(殿の屋敷)」と呼ばれています。中世の武家造りの屋敷は約27アールで、館の前には東谷川を利用した川堀と後ろには土塁で囲まれた跡も見ることができます。
又太郎は殿である長年の通称だから、確かに名和公の屋敷跡なのだろう。ここにある「名和神君碑」という古碑は、寛政の頃、鳥取藩主第6代池田治道(はるみち)が発起し、その遺志を継いだ9代斉訓(なりみち)が天保六年(1835)に建立した。藩士で儒者の箕浦徳胤が撰した碑文では、名和長年は次のように評価されている。
百世之上而使百世之下凛然興起者我伯耆守名和君斯其人也邪
百代後の人を凛然と(勇ましく)興起させる(奮い立たせる)百代前の人、それは我が名和伯耆守、その人ではなかろうか。隠岐を脱出した後醍醐天皇を助け、建武新政府樹立に多大な貢献をした名和長年。500年後の鳥取藩は彼からインスパイアされていた。
近くにある長綱寺(ちょうこうじ)の裏山に、町指定史跡「名和公一族郎党の墓」がある。長綱寺は名和長年の菩提寺である。
いくつあるのか数えきれないくらいだが、約300基の五輪塔があり、昭和5年に地元の農家の方が土中から発見したそうだ。北朝方に荒らされないように埋納したと考えられている。
また近くに「的石」がある。
阿蘇市的石には健磐龍命(たけいわたつのみこと)が射たという巨大な的石がある。名和の的石も、的になるような平らな面がある。どのようないわれがあるのか、二つの説明板から引用しよう。
昔、名和公の一族が弓矢の修練に使用した的だと言われている。船上山の合戦に少数の守勢で追っての大軍を撃ち破り、弓の名人といわれた名和公は、五人張りの強弓を引き一矢で敵兵二人を射倒されたという。名和公が武芸の修練に大変力を入れていたことが、うかがわれる。
大山町観光協会名和支部縦170センチメートル、横150センチメートルの大きな石、弓の名手であった名和長年が、弓矢の稽古をするときに的にした石と伝えられています。また、雨が降りやんだ後、太陽が照り出すと、石の表面に白く二重の輪が見えます。
的の模様が浮き出る?「見えると言われています」ではなく「見えます」との断言に自信のほどがうかがえる。そう言われて写真を眺めると、二重の輪がうっすらと見えるような気がする。
長年が討死して600年ほどした昭和10年、従一位が追贈された。人間一代を30年とすると、長年は二十代後の人々の心を動かしたことになる。名和神君碑が語るように百代後まで語り継いでいきたいものである。