ロシアとウクライナの戦争は双方が正義を掲げているが、どう考えてもウクライナとその支援国に真の正義がある。それでもロシアに対する制裁に温度差があるのは、天然ガスへの未練のせいだろう。EU加盟のハンガリーは天然ガスのルーブル支払いに応じているし、我が国もガス事業「サハリン1,2」から撤退しないと表明している。
これをやむを得ないと見るか、裏切り行為とするか。それぞれに事情があるといえばそうなのだが、南北朝の争いにおいては裏切りなんぞ当たり前であった。『太平記』巻第三十九「山名京兆被参御方(みかたにまいらるゝ)事」を読んでみよう。
山名左京大夫時氏、子息右衛門佐師氏は、近年御敵に成て、南方と引合て、両度まで都を傾しかば、将軍の御為には、上なき御敵なりしかども、内々属縁(えんにしょくして)、両度の不義全く将軍の御世を危め奉らんとには非ず。唯道誉が余に本意無りし振舞を、思知せん為許にて候き。其罪科を御宥免有て、此間領知の国々をだにも被恩補(おんぶせられ)候はゞ、御方に参て忠を致すべき由をぞ申たりける。げにも此人御方に成ならば、国々の宮方力を落すのみならず、西国も又可無為(むいなるべし)とて、近年押(おさへ)て被領知(りょうちせられ)つる因幡伯耆の外、丹波丹後美作五箇国の守護職を被充行(あておこなはれ)ければ、元来多年旧功の人々、皆手を空(むなしく)して、時氏父子の栄花、時ならぬ春を得たり。是を猜(そねみ)て述懐する者共、多く所領を持んと思はゞ、唯(ただ)御敵(おんてき)にこそ成(なる)べかりけれと、口を嚬(ひそむ)けれ共甲斐なし。人物競紛花(じんぶつふんかをきそへば)、麗駒逐鈿車(りくでんしゃをおふ)、此時松与柏(このときまつとはくと)、不及道傍花(みちばたのはなにおよばず)と、詩人の賦(ぶ)せし風諭の詞(ことば)、げにもと思知れたり。
山名時氏父子は近年、南朝と結んで正平八年六月と翌九年十二月の二度も都を占領した。将軍にとってはこの上ない敵だが、内々にコネを頼って「二度の京占領は、将軍の治世を危うくするためではなく、佐々木道誉のひどい振る舞いを懲らしめるために他なりませぬ。この罪をお赦しいただき、支配する国々の守護としてくださるなら、味方となって忠節を尽くしましょう」と申し出た。確かに時氏が味方となったら、南朝勢力は弱体化し、九州の懐良親王も孤立するだろうと、領地の因幡・伯耆のほか、丹波・丹後・美作と合わせて五か国の守護に任ぜられたので、長年仕えて功があった人々は何も得るものがなく、時氏父子の栄華は季節外れの春のようであった。これを妬む者どもは「所領を多く持ちたいなら、将軍の敵になるのが一番だ」と言ったが、どうしようもない。人が華やかさを追い求め馬や車を飾り立てるなら、マツやカシワは道端に咲く花に及ぶまい。そんな詩が思い出される。地道に忠節を尽くす者は報われないってワケか。
本日はこのトンデモ武将の本拠地からのレポートである。
倉吉市巌城(いわき)に「田内城跡」がある。
櫓風の建物がある。近世城郭のように見えるが、時代は南北朝のはず。トンデモ城郭なのか。櫓側面の碑文を読んでみよう。
田内城跡(由来)
田内城は、今を去ること六百五十年、山名時氏公(一二九九-一三七一)約二十年間の拠城であった。
公は、清和源氏の名流で、上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名町)の出身で、全国六十六か国のうち十二か国を領し、六分一殿と称せられる程の隆盛を見た南北朝時代の知勇兼備の武将で、侍所長官として幕政にも重きをなした。
建式四年(一三三七)伯耆守護に任ぜられ、その治所としたのが、この仏石山頂に築いた田内城である。急峻な岩山で、東の山裾には国府、小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また、水運にも利用されて、城下町が発達し「見日千軒(みるかせんげん)」といわれる程に繁栄した。
時氏公の嫡子師義公は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、当城は廃城となった。
この遺跡は簡素で、小規模な山城の元の形を今によく残しているが、当時の建物の姿は明らかでないので、後世の諸城を参考として櫓風に造ったものである。
一九八七年三月吉日
撰文 倉吉文化財保護審議会会長 手嶋義之
後世のものだと正直に述べている。こうした誠実な姿勢が信用を高める。時氏公の墓所が、それほど遠くない場所にあるから行ってみよう。
倉吉市巌城の山名寺に「六分ノ一殿 山名家始祖 山名伊豆守時氏公之墓」がある。塔身が細くなっているので、倒れないか心配だ。
山名氏は守護大名、戦国大名、交代寄合格の旗本、維新後に大名、男爵と、栄枯盛衰の激しい武家社会を見事に生き抜いてきた。その礎を築いたのが「始祖」山名時氏公である。標柱には次のように刻まれている。
山名公は上野国山名庄の住人。建武の頃、足利尊氏公に仕えて出世し、因伯作但丹五ヶ国の守護となり子孫に伝う。終には一族合せて十一ヶ国を領し世に「六分ノ一殿」と称せらる。此の墓もと市内小田地内にありて大将塚とよばれ、墓前を通る際は下馬するを礼とすと伝う。昭和十七年山陰本線の改修にあたり八世和尚当寺境内に改葬し、今回更に改修せるものなり。
法名 光孝寺殿鎮国道静大禅定門 応安四年四月二十八日 京に於て歿す
もとは東国の武士だが、伯耆の名和氏を掃討してから山陰に勢力を築いた。足利尊氏から直義に鞍替えしたり、南朝の楠木正儀や反尊氏の直冬とも結んだ。節操がないのではなく、勝つためなら何でもやる武将であった。
時氏ゆかりの地は伯耆倉吉だけでなく、因幡佐治にもある。佐治谷へ入るためにはいったん岡山県を通過しなければならない。
鳥取市佐治町古市に「やまんどう(山名堂)さん」がある。
古い石塔がたくさん集められている。鳥取市佐治町総合支所作成の「さじウォーキングMAP」には、次のように記載されている。
山名時氏を祭ったものではないかという言い伝えが残っています。集落近くに移して祭っているもので、実在は西側の山中に小祠が建立してあります。
その小祠にも行ってみよう。
「やまんどうさん」の西側の山に小さな祠があり、「施主 山名時氏」と刻まれた石が置いてある。
祠の向こうには石塔の残欠が散乱している。山名時氏とどのような関係があるのか分からないが、時氏の子氏冬の系統が因幡守護の地位を長く保持したから、時氏の名前で語り伝えられたのかもしれない。
室町幕府創設の立役者でありながら、反幕府、そして復帰、変幻自在の山名時氏。「地味すぎる大乱」を謳い文句にした応仁の乱は複雑で訳が分からないが、南北朝の争乱はそれ以上であり、それを体現しているのが時氏公であった。ドラマティックな生涯だったに相違ないが、大河ドラマ化するにはややこしすぎるだろう。