日本に開国を要求したアメリカ人はペリーが初めてではない。ペリー来航の7年前、弘化三年(1846)にジェームズ・ビッドルが通商を求めて浦賀に来航した。この時の浦賀奉行は大久保忠豊と一柳直方(ひとつやなぎなおかた)であった。老中と連絡を密にして、通商を拒否する旨をきっぱりと伝えると、ビッドルはおとなしく退去した。夏の10日間ほどのことである。
今日は幕府の能吏、一柳直方のご先祖様の話である。著名な人物がほとんど出てこないが、少々お付き合い願いたい。
四国中央市土居町津根に「一柳公陣屋敷跡」がある。
この陣屋は一般に「八日市陣屋」と呼ばれている。陣屋周辺の見取図があるので拡大してみよう。見取図は上が南で描かれているから、星印が写真の位置となる。
一柳氏はあまり知られていないが、播磨小野藩と伊予小松藩の大名である。明治になってからは両家ともに子爵となった。旧小野藩主家の満喜子は、近江八幡市の恩人ウィリアム・メレル・ヴォーリズに嫁ぎ、後にヴォーリズは一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名した。
一柳氏は秀吉や家康のもとで活躍した直盛を祖とする。直盛は永年にわたる功績から寛永十三年(1636)、伊勢神戸から伊予西条に転封となる。しかし、直盛は西条に向かう途上で死去し、遺領は三人の息子が分割相続する。
長男の直重は伊予西条藩を相続し、二男の直家は伊予川之江藩(後に播磨小野藩)を、三男の直頼は伊予小松藩をそれぞれ立てた。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。
ところが、寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられてしまった。分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。
高木陣屋は三木市別所町高木の豊城根神社あたりにあった。旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方である。墓は杉並区梅里一丁目の妙祝寺(みょうしゅうじ)にあるようだ。
どうだろうか。本日紹介した八日市陣屋は、アメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行、一柳直方の先祖の陣屋だということだ。ふーん、と言われるならそれまでだが、小さな陣屋から見えてくる歴史もあるのだ。