東北へ帰るという同僚がいたので乗せてもらい、常磐道で勿来まで来た。福島県に入ったのはこの日が初めてだった。その日のうちに歩いて茨城県に戻ったので、結局半日ほどの滞在だった。あれから何年もの月日が過ぎた今では、宝石のように貴重な想い出だ。
いわき市勿来町に「奥州勿來關趾」の石碑があり、傍らに源義家の銅像が立つ。
関所に入るかのような門がある。その左にある石碑の解説文を読んでみよう。
勿来関
勿来関は、もと菊多(いわき市南部の古名)剗と呼ばれ今を去る千五百有余年前に設置されたといわれ、白河関・念珠関と並んで奥羽三古関の一つとして名高い関所である。
これを「勿来」すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろからであり、北方の蝦夷の南下をせきとめるためであったと言われている。
又平安初期の弘仁ニ年、いわき地方の駅路(官道)の廃止にともなう通行止めを監視する関とする説もある。
平安時代も終わりに近い後三年の役のとき陸奥守源義家が、その平定のため奥州に下向する途中ここにさしかかる。
折りしも盛りの山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた。
行く春をおしむかのように、武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめ
吹く風を 勿来の関と 思えども
道もせに散る 山桜かな
と詠じたのが、勅撰の千載和歌集に載せられ勿来関の名を今の世に伝えている。
いわき市
音に聞く武将ゆかりのこの地は、いわき市立勿来第二小学校の校歌(昭和8年制定)として今も子どもたちに歌われている。作詞は「荒城の月」で知られる土井晩翠である。
勿来の関に 吹く風を 花にいたみし 名将の あとは名高し 今にして 名残のかおり 吹きたえず
しかし、関の向こうの北茨城市の『図説北茨城市史』では、次のように疑問が呈されている。
勿来関については問題が多い。まず、第一に同じ関でありながら菊多関、勿来関というふたつの呼びかたをなぜしているのであろうか。勿来関と同じ頃に置かれた白河関は、つねに白河関と呼ばれ他の呼びかたはない。あるいは菊多と勿来は、関の置かれていた場所がことなるのであろうか。
次に勿来関跡は、現在いわき市勿来町関田・関山にあてられているが、これは文政年間(一八一八~二九)に酒井素英と小野洞月が関跡と認定し、嘉永年間(一八四八~五三)に筒井憲が源義家の歌碑を建立したもので、関跡の遺構や史料があったわけではない。関山の地はたしかに景勝の地であるが、こういう山の尾根の頂上に関とか城を設ける例は、古代では見られないのである。この地形では関守たちの日常の生活も不便であるし、断崖が海にせまり道路が波に洗われるような地が、古代の官道であったとは思われない。また、この地に関が置かれたとしても、関山を通って北に出た所は蛭田川と鮫川の流域にあたる。このあたりは古代では広い氾濫原をなしていたはずなので、直進することはできなかったであろう。
したがって、常陸国から関に入るには、北茨城市関本町関本上からいわき市勿来町の大槻に出るコースや、富士ヶ丘から勿来町の関根に出るコースなどが推測されている。また関本上からもと中山寺の置かれた中山を通り、勿来町の酒井に出るコースも注目される。酒井は「境」で国境の道がこの地を通っていたので名付けられた地名であろう。その酒井に関根の小字があるのも、関本からの官道が酒井(境)を通って関根に通じていたことを思わせる。今後の調査がまたれるところである。
つまり、もっと内陸のコースだということだ。常磐道が通過するあたりのことだろうか。それだけではない。遠く宮城県宮城郡利府町の惣の関ダムの手前に小祠「勿来神社」があり、そこが勿来の関跡だともいう。
古来、勿来関は都人の憧憬の地であり、詩文にその名が詠みこまれて来た。紀貫之、小野小町、和泉式部、そして清少納言などが、「来る勿れ」や人を通さぬ「関所」のイメージを借りて歌枕としている。
惜しめども とまりもあへずゆく春を なこその山のせきもとめなん (紀貫之)
みるめ刈る あまのゆききの湊路に なこその関もわが据えなくに (小野小町)
なこそとは 誰かはいひしいはねども 心に据うる関とこそみれ (和泉式部)
関は 逢坂。須磨の関。鈴鹿の関、くきたの関。白河の関。衣の関。ただこえの関ははばかりの関にたとしへなくこそおぼゆれ。横はしりの関。清見が関。みるめの関。よもよもの関こそ、いかに思ひ返したるならむと、いと知らまほしけれ。それをなこその関といふにやあらむ。逢坂などを、さて思ひ返したらむは、わびしかりなむかし。 (清少納言)
清少納言は「枕草子」107段(小学館『新編日本古典文学全集』)である。よもよもの関まで来た人が「やっぱり、やめた。行くものか」と思い直したとしたらどうよ。それこそ「来るな!」っていう勿来の関じゃない。このような感じだろうか。
展望台から海岸線が見えた。左方の建物は勿来発電所。火力発電所である。この辺りもこのたびの津波で随分と被害があったと聞いた。歌枕となった勿来関。それを見たこともないのに美しく歌った都人。来るなかれという場所は歌以上に美しく切ない。この写真の北方で起きている原子力事故は現在も予断を許さない。それでも自然は必ずや再生し、やがてもとの憧憬の地となっていくはずだ。