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維新の種火となった生野の烽火

三菱重工ビル爆破事件から今年で50年。現場は今の丸の内二丁目ビルである。このビルが文部科学省ビルだった頃に、半年ほど勤めたことがある。凄惨なテロがあったとは思えないようなアーバンな雰囲気だった。一般人を標的にした無差別テロは人道に反する。愛国のかけらもない行動を革命とは呼ばない。

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宍粟市山崎町木ノ谷の美国神社に「美玉中嶋両氏之墓」がある。「従四位子爵小笠原貞孚書」とも刻まれている。貞孚(さだざね)は播磨安志(あんじ)藩最後の藩主である。

美玉氏中嶋氏両名は生野義挙に参加した志士。義挙や志士は明治維新の魁とする立場からの美称で、一般には生野の変と呼ばれる。倒幕派の浪士が生野代官所を占拠したが、間もなく壊滅した騒動のこと。両名はどうなったのか、石碑に刻まれた解説文を読んでみよう。もとは明治維新百年を記念して昭和44年に木製で作成されたが、平成5年に石碑にしたようだ。読んでみよう。

生野義挙美玉三平中島太郎兵衛殉節地
兵庫県宍粟郡山崎町木ノ谷段の上
文久三年平野国臣生野に勤皇の挙ぐるや美玉三平中島太郎兵衛及び仝人弟黒田与一郎の三名は一早く烈士に互して之に参画国事に奔走せしも利あらずして追われ今の宍粟郡一宮町の町境近き栃原に出で更に千町福知生栖等を経て南下此の地即ち木ノ谷字段の上までのがれ大楠(今は枯死してなし)の根方に於て美玉中島両名は力尽きて倒る時に文久三年十月十四日弟与一郎はとらわれの身となり後京都の獄舎に於て牢死す時に慶応二年十月九日なり
明治二十一年九月美玉三平を仝二十四年九日中島太郎兵衛黒田与一郎をそれぞれ靖国神社に合祀仰せ出されその後美玉三平中島太郎兵衛に従四位黒田与一郎に対し正五位を贈らる
今同所山神社に三氏の霊を併せ祀り年々の祭祀(四月第二日曜日)をなす別社名を美国神社と言うも国に殉じた美徳を称える為である
元治元年正月黒田与一郎が木ノ谷を回顧し詠める
もののふの名はいつまでも木の谷のそのかんばしき楠の木のもと
前宮司大谷信也撰文書

文久三年(1863)十月十二日に生野代官所を占拠したが、周辺諸藩による鎮圧の動きに、翌日夜には総帥の澤宣嘉卿が本陣を脱出。浪士たちは味方と恃んだ農民からも賊徒扱いされ、それぞれに逃亡を図った。

澤卿一行の逃避行は「鳥ヶ乢で鳴いたコケコーロー」に記した。美玉中島の両名は代官所のある朝来市生野町口銀谷から生野町栃原に出て、千町峠、一宮町福知、一宮町生栖(いぎす)を経て南へ下り、山崎町木ノ谷まで逃れてきた。

これに対して、「広報しそう」平成28年3月号に掲載された宍粟歴史再発見第34回「十三人の志士」では、別ルートが記されている。すなわち朝来市佐嚢(さのう)の神子畑(みこはた)、宍粟市一宮町黒原、一宮町三方町(みかたまち)である。その後は一宮町福知に入り、上記と同じルートだろう。播但国境を越えたのは、南の千町峠か、それとも北の神子畑峠か。神子畑峠は笠杉トンネル北側の鞍部にあるらしい。

福知から西へと進んだ澤卿一行は生きながらえ、南へ下った美玉中島両氏は農民に銃撃され討ち取られた。志士らが逃げるスピードと「逃げた賊を討ち取れ」という知らせの伝達速度。電波のない時代にも、速やかに伝わる情報網が築かれていたのだろう。

先に紹介した説明文では、美玉中島は大楠の根もとで力尽きたとされているが、宍粟歴史再発見では、中島は民家に入って弟与一郎の介錯を受け、美玉は近くの椋木の根もとで息絶えたという。

いずれにせよ、革命の烽火はあっけなく立ち消えてしまった。この武装蜂起をどのように評価するか。愛国的であるがゆえに是とするか、秩序を乱す非合法な騒動として否とするか。いずれにせよ、倒幕に向けて少数有志での蜂起は効果的ではなく、雄藩が立ち上がらねば事態は動かないことが分かったのである。


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