巨石信仰は分かる気がする。迫力が違うのだ。自然が造ったと聞けば不思議だと思うが、神がお造りになったと聞けば納得してしまう。このような場所には何らかのパワーが秘められているに違いない。下の写真を見よ。二つの巨岩が小さな岩を支えている。
京都府相楽郡笠置町大字笠置字笠置山の笠置寺に「笠置石(かさおきいし)」がある。
二つの巨岩に向かって左側を「薬師石」、右側を「文殊石」という。名前はそうだが仏像が刻まれているわけではない。そして、間の小さな岩が笠置石である。小さいとはいえ1~2mはある。修行場を巡れば上からも見ることができる。
薬師石と文殊石は、後日紹介する「弥勒石」にちなんで仏の名が付されたと考えられている。さて、笠置石はどうだろう。目を下に向けると解説板が設置されているので読むことにしよう。
天武天皇(第40代)が皇子のころ鹿を追って狩の途中、この岩上で進退きわまり、仏を祈念して難を逃れられたので、後日の目印として笠を置かれたという伝説がある。
笠置町の町名の発祥の石である。
少し意味をとりにくいところを解説しよう。「仏を祈念」したとは、進退に窮した皇子が山の神に「若扶吾命者、於此巌畔奉刻弥勒尊」(『笠置寺縁起』)、つまり「私の命を助けてくださるなら、この岩に弥勒仏を刻んで差し上げましょう」と言ったことを指している。そして目印にと笠を置いたのがあの石の上だったのである。
これが弥勒仏を本尊とする笠置寺の草創となるのだが、先ほど少しばかり引用した同寺所蔵の『笠置寺縁起』によれば、仏を祈念したのは天武天皇ではなく天智天皇の皇子である。また「第三十九代天智天皇亦号田原天皇」とあるが、田原天皇とは天智天皇の皇子であり、混乱している。
『今昔物語集』巻第十一によれば「天智天皇御子」であり、護国寺本『諸寺縁起集』によれば「天智天皇第三皇子」となる。第三皇子の名は具体的に示されていないが、施基皇子とも川島皇子ともいわれる。笠置町ホームページの笠置寺見どころガイドの「本尊弥勒磨崖仏」の項では「天智天皇の皇子の大友皇子」となっている。ますます分からない。
伝説が曖昧であったり尾鰭が付いたり、あるいは変容したりするのはよくある話だ。それが伝説の妙味だったりする。次回は皇子の祈念により完成した弥勒仏を紹介することにしよう。