対外戦争において天皇が動座されたのは、百済救援戦争と日清戦争である。大東亜戦争でも御動座の計画はあったが幸いなことに幻で終わった。日清戦争で明治天皇は広島に大本営を置かれた。これに伴って広島で臨時帝国議会が開催されたことは既に書いた。本日のレポートは百済救援戦争における斉明天皇の史跡である。
朝倉市須川に「橘廣庭宮之蹟」と刻まれた大きな石碑がある。「朝倉橘広庭宮跡」である。
この立派な石碑は、大正4年11月の大正天皇の即位大礼を記念して、福岡県教育会朝倉郡支会によって建てられた。斉明天皇がこの地に御動座あらせられた経緯について、説明板を読んでみよう。
4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救援軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸御殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御稜山」が存在する。
石湯行宮(いわゆのかりみや)は愛媛県松山市の道後温泉近くの久米官衙遺跡群と考えられている。磐瀬行宮は福岡市南区三宅にあったという。ここを天皇は長津宮とした。大阪から海路で松山に立ち寄り、博多から南へ下って朝倉へ入った。朝倉橘広庭宮に入られたのは5月9日だから約5カ月の旅である。
石碑のある丘が朝倉橘広庭宮の場所かと思えば、どうやら違うらしい。百済救援戦争の大本営は下の写真の場所である。
朝倉市須川字乗馬に「天子の森」がある。斉明天皇が御座したのはこの場所だったのだ。
斉明天皇は滞在75日で崩御する。息子の中大兄皇子は即位しないままに長津宮で全軍の指揮を執ったものの、白村江の戦いで完膚なきまでに打ち破られる。
それでも、75日間この地に大本営が存在したことは、日本と百済の友好の証である。このれは小さな日韓友好史跡として記憶に留めてもよいだろう。