「大魔神」が50年ぶりに太秦に復活した、と14日の京都新聞のサイトが伝えている。埴輪の武人像のような大魔神が約6mの大きさで商店街に立っているという。懐かしげに報道しているのだが、私にはさっぱり分からない。少々世代がずれているようだ。それより、気になるのは「太秦」という地名である。
この太秦は帰化人の秦氏にゆかりがある。有名な広隆寺は秦氏の氏寺であり、大酒神社は秦氏の先祖である秦の始皇帝を祀っている。その秦氏の中でももっとも著名なのが、聖徳太子の側近として活躍した秦河勝である。
相生市那波南本町に「秦河勝播州漂着説之事」という題の船の形をした石碑がある。
秦河勝の晩年は伝説的で詳細には分かっていない。本拠の京都太秦で終焉を迎えたと考えるのが自然だが、寝屋川市に墓があることは以前に報告した。しかし、今日取り上げる石碑には次のように記されている。
秦河勝播州漂着について、能楽書『風姿花伝』に「摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く」とあり。一方、『明宿集』では「業ヲ子孫ニ譲リテ世ヲ背キ、空舟ニ乗リ、西海ニ浮カビシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。(中略)ソノ後、坂越ノ浦ニ崇メ、宮造リス。」と載せる。
この地は、かって那波大避神社から南へ約百米に及び細長く湾内に突き出た岩場の岬であった。その先端は末広がりになった「杓子」のような地形で土地の人は「白鷺のハナ」あるいは「オオダケさんのハナ」とも呼び、古昔は通称「シャクシノハナ」と称していたとも伝える。
平成19年11月3日 相生歴史研究会
あの世阿弥が『風姿花伝』に記しているというのだから、無視することはできない。河勝は丸木舟に乗って「播磨の国坂越の浦」に漂着したという。事実、赤穂市坂越(さこし)にある大避(おおさけ)神社は秦河勝を祀っている。京都太秦も大酒(おおさけ)神社と同じ音である。
『明宿集』は世阿弥の娘婿である金春禅竹(こんぱるぜんちく)が記した能楽書である。丸木舟に乗ってたどり着いたのは「播磨ノ国南波尺師ノ浦」だという。南波(なば)は那波(なば)であり、那波南本町の大避神社の前が岬となっており「シャクシノハナ」と呼ばれていたらしい。「尺師」は「しゃくし」だから、秦河勝が漂着したのは相生だということになる。坂越に移ったのは後のことである。
ただし、「坂越(さこし)」はその昔「しゃくし」と呼んでいたともいわれるので整理がつきにくい。赤穂と相生の両説はどちらが正しいのか。興味はあるが、その真偽より重要なのは、なぜ播州に流れ着いたとされたのかだ。
そこで調べてみると、相生市域はかつて矢野荘と呼ばれていたが、その開発領主が秦為辰(はたのためとき、11世紀末)であった。その子孫を称した悪党・寺田法念ら寺田一族も一時期勢力を持っていた。秦河勝の伝承は秦氏ゆかりの人々によるものかもしれない。
秦氏ゆかりの地は各地にあるようだ。先進技術を有し我が国の発展に大いに貢献した。秦の始皇帝ゆかりと、スケールも大きい。日中あるいは日韓交流史を語るうえで欠かせない存在である。